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2004.01.15

少林一指禅

少林一指禅は気功であるが、私は立禅であるとも思っている。座って禅を行うのではなく、立って禅を行うからである。だが、少林一指禅は思いも及ばないところからその道が始まるのである。
気とはどのようなものなのか、私は長いこと探索を続けていた。ある時、本屋で目に留まった題名に心を引かれ、私は惑わずその本を手に取った。この時、少林一指禅の門をくぐていたのである。
少林一指禅の気功は精神を全く集中させない。その練功は、普段の通りに目を開いて、見えているものを見つづけて行うのである。精神集中も瞑想も一切行わないばかりではなく、行ってはいけないのである。
座禅、瞑想の全ては精神を集中させることから始められ、精神の集中で終わっている。座禅者、瞑想者が精神集中の結果到達する世界については、昔から様々に語り伝えられ、現在も語り加えられている。この世界は、日常世界に通ずる道からは断絶していると思われ、非日常の世界ととらえられている。

2003.09.30 12:51.JPG

私にとって、少林一指禅に巡り合ったことはこの上ない喜びであった。師から少林一指禅の説明を最初に聞いた時、私のためにあるのではないかと心が震えるほど感激したのを覚えている。ここに到達するまで、すでに9年を超える瞑想を続けていたが、気をまだ知ることが無かったからである。
少林一指禅の練功の経過は、身体のリラックスの状態が螺旋状に経過して深まって行く、と分かっている。
身体のリラックスというのは、自身で自身の身体の重さを感じることが出来てくることに表れ、立っている身体を支える骨格筋を残して、他の筋肉が身体の平衡を損なわない限度まで緩んでくることである。
このリラックスの度合いが深くなって行く過程は、身体の上部から始まり下部に向かって何度となく繰り返して進む。これが螺旋を描いてリラックスの高みに上がって行くことなのである。
上昇螺線は真上から見ると円を描いており、正に同じことの繰り返しであり、横から見ると下から上への昇っていくのである。
私はこの繰り返しに慣れるまでに何年も掛かっている。最初そのリラックスの強い痛みの波の間隔は週であり、日となり、時となり、今では気にならないほど早くなってきている。
少林一指禅を練功して気を知るようになると、今まで気付かなかったことも徐々に気付くようになってくるし、探求心も強くなってくる。探求心は、練功の最中に勿論奮ってはならないのである。
練功をしていない時に大いに探求心を満足させることが、今の私にとっての健康法の一つであると思い、毎日探求の旅を続けているのである。

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