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2004.01.15

石原莞爾の書いた「満蒙問題私見」について

私は時々自分のパソコンの中のフォルダーを手当たり次第に開いてみることがある。一息入れている時など、ふと何が入っていたかなと気になる。

こうして、このファイルも見つけてしまった。若干手を入れてここに載せてみることにした。

偶然見つけた古い原稿

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先程、石原莞爾の書いた「満蒙問題私見」を読み、当時の日本人の動向を少しではあるが調てみた。この「私見」に「謀略により機会を作成し軍部主導となり国家を強引すること必ずしも困難にあらず」と書かれていることに注目し、私の考えを述べてみたい。

当時の日本は非対称の国民国家でした。つまり、必須系情報において日本国民は超極小の情報量しか与えられず、逆に超巨大量の市井娯楽系情報の洪水にみまわれ、政府権力機構のみ超極大の必須情報を保持している状況でした。

このことはどこの国においても支配者と被支配者の間で不変であり、それが不変に保たれているのは、被支配者の側に必須情報を必須とする動機が与えられていないからでしょう。

では必須情報を必須とする動機とはいったいなんでしょうか。その動機とは人が人を支配したいということでしょう。人が人を支配する道具は歴史的に変遷を経てきましたが、現在の道具は資本主義的資本であることに間違いはありません。

資本主義的資本がその力を充分に振るうことが出来るのは、資本家の個人的独立が充分に保証されていなければなりません。つまり、資本家のみが資本家になる、という道が確保されていることが必要なのであります。

この資本家が育っていく道が確保された国において初めて、資本はその増大に向けてまっしぐらに突き進むことが可能になるのです。自国民から資本をかき集めてなお足らなければ、他国にその矛先を向けることになりましょう。

資本の集積は非対称を生みます。つまり、情報操作と連動して多数の小資本を少数の大資本に纏めるところから始まり、一極集中に終わります。その結果、莫大な量の資本は少数の資本家に集まり、莫大な量の無資本家が生じることになって終わります。

問題は、この資本増大可能国の環境を資本が死守するところから始まり、自国民を他国民に比べて相対的に裕福な生活環境に置くことによって、自国の環境破壊を免れようとするように働くことにあります。

この結果は、裕福な国と中流意識の国民に対して、極貧の国と悲惨な国民が生ずることになります。そしてここでも問題なのは、この非対称の状況を裕福な国と国民が自国繁栄の好環境として、それを保持し続けようとすることでしょう。

このとき、この国を維持発展させるために粉骨砕身その任に当たる軍人に、出場する好機が与えられることになります。この場合、この環境を拡大して他国をも自国の環境に取り入れる行動をとるのは、軍人にとって歴史の必然といえるでしょう。

石原莞爾が「満蒙問題私見」で「謀略により機会を作成し軍部主導となり国家を強引すること必ずしも困難にあらず」と表明した大いなる自信は、歴史の必然を読み取り、軍人として従う道を見い出した、と思うところから生まれたものでしょう。

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