« 石原莞爾の書いた「満蒙問題私見」について | トップページ | 野方笑い地蔵尊 »

2004.01.18

井の頭公園のアキニレ

2004.01.18 12:41.JPG

今朝庭に出てみると夜中に降った雪が僅かに残っていた。午後から井の頭公園に散歩に行く。
何時も見上げているアキニレの木に近づくと、梢にはもうすっかり葉が無くなっている筈だが、一見すると白い小さな葉のようなものが沢山ついている。よく見るとそれは白い実で、枝についたままで枯れているが分かる。
池ノ端を歩いてみるが、さすがに花は見つからない。鴨や鳩を眺めながら吉祥寺駅に向かう。駅の中を通り越してまだ仮屋根のままのサンロードのアーケードに入る。すぐ喫茶店 Excelsior Cafe に入った。3階の禁煙席はほぼ一杯であったが、窓側の一席に座ることが出来た。

2004.01.18 14:24.JPG

「本日のコーヒー」を飲んでいると、たちまち SF の世界に入り、思いが浮かんできた。「木の葉」である。
だいぶ前に行った屋久島で、縄文杉を触ったときのことがが目に浮かんできた。この木の生きている木質部は外側の数年分に過ぎない。中心に向かって数千年の木質部分は生きてはいない。数千年の遺跡に若い枝葉というごく最近の生命が取り巻いて、この縄文杉は存在しているのだと思う。
ちょうど人間の場合この遺跡に当て嵌まるものを考えてみると、それは脳であるかも知れないと思った。太古からの脳の上にごく最近の脳が乗って生きているのと、どこか似ているかも知れない。だが人間の場合、この太古の脳も生きているところが大違いである。
樹齢百年くらいの若い屋久杉を考えてみると、毎年生まれている葉は一年生き、樹皮は毎年生まれ変わり、幹や枝に増えた木質部分は年輪を形成して数年生きていると考えられる。中心の枯死した木質部は生きた木質部に囲まれて外部環境から守られ、また若年の樹皮と木質部分は木の中心の死した木質部によって強く支えられていると考えてもいいだろう。木質部は長いことその木の中心にあって若い枝葉を支え、やがてこの遺跡は人間に材木という名で取り出されて再利用されることがある。
このようなことを考えて、仮想森林の中を散歩していると、木の葉がとても新鮮に見えてくる。でも、木の葉の形や内部構造は、この木が誕生した頃とほとんど変わっていないのではないだろうか、この点ではこの木の葉は非常に古いのだと思えてくる。
仮想森林の中に迷い込んで旅をしていると、一体この私が何者なのか、この葉たちに私はどのように見られているのか、などと考えて反省してみたい気分に襲われる。
携帯電話の音がすごくみじかに聞こえ、だんだん大きくなって我に返る。電話の内容は、待ち合わせの時間が近いことを知らせてきたものであった。本をリュックに念入りにしまって、ゆっくり店を出た。

|

« 石原莞爾の書いた「満蒙問題私見」について | トップページ | 野方笑い地蔵尊 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/12847/113653

この記事へのトラックバック一覧です: 井の頭公園のアキニレ:

« 石原莞爾の書いた「満蒙問題私見」について | トップページ | 野方笑い地蔵尊 »