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2004年2月の記事

2004.02.29

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-4

凍傷を受けた全ての個所の水泡のなかの漿液が、真っ黒い桐炭椿油と置き替えられて、どのくらいの日が過ぎたか覚えていない。
日が流れるにつれ次第に新しい皮膚が生まれてきている実感につつまれ、身体全体に力がみなぎってくるのを感じるようになっていた。このころは、毎日ただ食べて新しい皮膚の誕生を祈るばかりであったと思う。身体が腐るのは簡単であるが、身体に新しい皮膚を誕生させるのは、そう簡単なことではなかったはずである。
このころ赤城さんと会っていたのか、学校で何があったのか、友達と何を話していたのか、一切記憶にないののが不思議といえば、不思議な気がする。このころの記憶の量は非常に少なくなっていると思う。私の感では、他のことを感じている暇が無いくらい、凍傷の治療に専念していたとしか思えない。つまり、痛かったか痒かったか、布団の中でも布団に触らないように注意し、人と話していてもうわのそら、何を聞いても聞こえず、という心理状態にあったので記憶に残るものは何もなかったと思えるのだ。私は今でも、何か気になるとそのことに集中してしまって周囲のことは何も分からなくなる。昔とちっとも変わっていないと自分でも思っている。
こうして、痛くて痒くて床の中で眠れない日を過ごしていたことが、夢のように感じられるようになっていった。痛い、痒いといって家族には非常に迷惑をかけていたことを後で聞いた。当時の私には、周りのことを考える余裕はなかったうえ人一倍痛いことには弱かったので、その通りであったと思う。痛みには今もなお弱いままなのである。

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2004.02.28

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-3

凍傷になって水泡の出来ている手の指先、足の指先と踵、耳たぶのうち、針を刺し始めたのがどこの水泡からだったか、全く覚えていない。
最初に真っ黒い糸をつけた針が水泡の厚い皮膚を刺し貫いたとき、針穴から滲みでてきた漿液は腐った匂をだしていたが、全く痛みはなかった。もう自分の皮膚ではなくなっているという感じであった。かさぶたを取ったときのような感じに似て、その後が気持ち良かったような気がする。
最初は母が、次は私がそのまねをして針を水泡に刺し貫いた。真っ黒い桐炭椿油をつけた長い糸をゆっくりと引き抜いていく。水泡の中の腐った黄色い漿液を身体の外に出して、水泡の中に真っ黒い桐炭椿油を充填するのである。
私は何度もこれをくり返し、全ての水泡の漿液が完全に桐炭椿油と置き替わるまで続けた。こうして置き換える前の黄色い指先は薄黒い指先へと替わっていった。踵だけは水泡の古い皮膚が厚く、黒い色にはならなかったように思う。
黄色くなって腐った匂いのする漿液が身体の外に出されると、私の心と身体は蘇ったような気分に包まれていったことを、かすかに覚えている。

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2004.02.27

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-2

ここからは私が思い出せることであって、私の母の指示に従って凍傷に対処した記録である。
凍傷になって水泡が出来ているのは手の指先、足の指先と踵、耳たぶである。水泡の皮膚の色がくすんだ灰色に変わり、中の漿液が黄色く濁ったようになるまでに、多分半月くらいは経っていたと思う。その頃から凍傷の治療に取り掛かることになった。
ある日、母は桐の羽子板を丁寧に焼いて黒い炭を作った。それから、保存してあった貴重な椿油を取りだし、その油の中に作ったばかりの桐の黒い炭を溶かし、真っ黒な色をした桐炭椿油を作り上げた。この桐炭椿油が凍傷治療のための唯一の薬品となった。
治療の準備は私の目の前で次々に進んでいく。先ず食事に使っている中皿に真っ黒い桐炭椿油を注いだ。次に太くて長い木綿糸用の縫い針に木綿糸を通したものを取り出し、皿に入っている真っ黒い桐炭椿油の中にその木綿糸を浸し、たっぷり桐炭椿油をしみ込ませた真っ黒い糸を作った。
凍傷の治療は、この桐炭椿油をしみ込ませた真っ黒い糸をつけた針で水泡を刺し貫き、糸に含ませた桐炭椿油と水泡の中の腐って黄色くなった漿液とを完全に交換させるのである。
その当時は未だ炭の持っている力についての知識はなかった。後年、木炭について学ぶようになって初めて、木炭の持っている殺菌力や遠赤外線効果、脱臭力などの力を知るようになったのである。
当時私が持っていた炭のイメージは、習字の墨からの連想で、腐らないし黴びないということくらいであった。

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2004.02.26

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-1

昔、私が新制中学の2年生であった頃のことである。ある年の正月3日、ゆえあって独りで雲取山に登山することとなった。吉祥寺の家を朝発って、雲取山の山小屋に着いたのは夜の9時をすでに回っていた。
次の日の朝カマセン(鎌仙)と呼ばれていた山小屋の番人に起こされたとき、私は 手足の指先に凍傷 を負っていたが、それがどのような傷害なのかその時全く分かっていなかった。
カマセン(鎌仙)に、直ちに下山しなさい、と後見人を付けられた私は、山小屋に一晩泊まっただけで、後見人とともに下山させられたのである。下界に近づくにしたがって、私は 凍傷による痒みと痛み を知り、この先どうなるのか不安にはなってはきたが、もちろんまだ何も分からなかった。
雲取山をくだって家にたどり着いて暫くのあいだは、どのように過ごしていたのかよく覚えていない。
私が思い出せるのは、凍傷の手当てを始めたところからである。その間については、ここから逆に推定してみる他はない。
手足の指と足の踵と、それから耳朶に出来た大きな水膨れは、当分の間そのままにしておいたと思う。
水泡の中の漿液が新しいうちは、その下に未だ新しい皮膚が出来ていないので水泡にはさわれなかったのだと思う。
1週間か10日か、日時が経って水泡の下の漿液が死んで黄色く濁ってくるとともに、痛みとかゆみは減ってきていたと思う。

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2004.02.25

東京都の最高峰雲取山登山の思いで その8

雲取小屋を出てだいぶ経ち里山にくだってきていた。そろそろ地下足袋を脱いで革靴に履き替えようとしていたころ、地下足袋の中の足が非常に痒くなってきているのに気が付いていた。山を降って気温が上がってくるのに従い、血液の循環が良くなって足の指が温まってきているのだ。地下足袋を脱ぐと足はどうしようもなく痒い、叫び出すほど痒い。取り出した父親の黒い通勤靴は小さく見え、膨らんだ痒い足を靴下ごと入れるには窮屈だな、と思案しながらしばらく黒い平らな靴先を眺めていた。でも他に仕方がないので、足の指と踵には既に大きな水泡ができていたが無理やり革靴に押し込んで履いた。また手の指先にも大きな水泡が現れていた。水泡と普通の皮膚との境目が非常に痒くなってきていた。それでも未だ水疱に触ることは出来た。
痒い足をかばって歩き続けた。バスに乗り電車に乗り継いでいる間、足の痒みの他のことは何も考えられない状況を、じっと我慢していた。私の世話をして下界に連れ帰ってくれた後見人は自宅のある小金井駅で降りた。私は後見人のお名前を覚えていないが、その時も今もいつまでも感謝している。それから、ますます痒くなる足を引きずりながら吉祥寺の家に帰り着いた。こうしてともかく帰還することだけは出来たのである。

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2004.02.24

東京都の最高峰雲取山登山の思いで その7

翌日私は異様な感じに襲われて雲取小屋で目が覚めた。耳朶に何かついているのだ。触ってみると耳の周りに大きな毛虫のような形をしたものが付いていた。
それが凍傷だと聞かされたが、私にはその重大さは分からなかった。
カマセン(鎌仙)は、今日はこのまま直ぐに山を降りなさいと言った。私は、1週間分の米を持ってきたから一週間泊めて下さい、と何遍も頼んでみた。しかしカマセン(鎌仙)は断固として山を降りなさいと言った。この人と一緒に降りなさい、と言って私には大学生に見える屈強な後見人を紹介してくれた。後見人はキスリングザック、登山靴、ズボンに上着と登山装備は私とは格段の違いである。私は父親の古い背広とズボンに黒い通勤オーバーを着て地下足袋を履いた姿であるが、ザックだけは赤城さんに借りた貫録のあるキスリングザックであった。
私は後見人と連れ立って山を降りることになった。外に出ると、辺りはさんさんと輝く太陽の光で明るく、くだるにつれて雪が少なくなり、次第に春のように温かく感じられてきた。雪がなくなり水に濡れた地面を見ることが多くなってきていた。
後見人は私に色々と山のことを教えてくれた。昨日雲取山の頂上から見えた灯は遥か下の秩父の灯で、もし昨日雲取小屋を通りすぎてしまったら、下の秩父の灯まで辿り着くのは容易ではない、小屋を見つけてよかったんだよ、といって私を慰めてくれた。

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2004.02.23

東京都の最高峰雲取山登山の思いで その6

深い雪山の中で初めて、自分の声以外は聞こえようのない独りになっていた。その時、左側に少し離れてうす黒い小屋のようなものが見えたが、人気は無さそうであった。そのまま通り過ぎてから、ほんの直前、左側の少し奥に縦に長く細い一本の光のようなものが見えたことが、心に閃いた。あれは灯の光ではなかっただろうか、引き返してみると、縦に長く細いが強くて明るい灯の光が、目に飛び込んできた。
近づくまでもなく、山小屋の戸のすき間から漏れ出してきている灯の光であることが分かった。身体がばねのように踊って、一目散にその戸の方に向かって走っていた。何と叫んでいたか今は思い出せないが、たぶん今晩は!今晩は!と大声を出して、その戸を力一杯ガラガラと開けたのだと思う。そのまま行き過ぎなくてよかった、ただその感激だけが稲妻のように身体の中を貫いていた。
山小屋には人がいっぱい居て、温かそうだった。早速カマセン(鎌仙)に話をして赤城さんの言葉を伝えた。私は嬉しくて嬉しくてどう振る舞ったらいいか分からず、ただ何かしゃべり続けていたことを覚えている。このとき時刻は夜の9時を既に回っていた。
カマセン(鎌仙)は付ききりで私に何か言い続けているが、最初何を言われているのかよく分からなかった。落ち着いてくるとカマセン(鎌仙)の言っていることが分かってきた。今日は眠ってはいけない、足と手をこすり合わせ続けていなさい、眠ってしまうと凍傷になってしまう、と言っているのだ。だが、次第に襲ってくる眠気には耐えられず、私はとうとう眠りに落ちてしまったのである。

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2004.02.22

東京都の最高峰雲取山登山の思いで その5

時折風の音が吹き抜ける以外はとても静かな雪山の中を更に進むと、チリンチリンと直ぐ後ろから自転車が迫ってきて、思わず身体を除けることもあった。また直ぐ左側に電信柱が現れ、身体を寄り掛からせようとして何もないことに気が付き、踏み止まったこともあった。
だいぶ進んで山道が少し広くなった頃、左側に黒々とお堂のような形の建物が現れてきた。近づいてみると、確かにお堂であるが人は住んでいないことが直ぐに分かった。お堂はその中まで真っ暗だったのである。
更に進み、相当くだってきたので私はこの辺りに山小屋があるはずだと探し続けていたが、一向にそれらしきものは現れてこなかった。周囲の木々には黒々とした葉が茂ってきているし雪も相当多くなっているので、もし山小屋が現れなかったら、雪洞を掘ってその中に入らなければならない、と切実に思うようになってきていた。雪洞の形と中に入っている自分の姿が心に浮かんできていた。

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2004.02.21

東京都の最高峰雲取山登山の思いで その4

雪の中に道を見失った私は直ぐに後戻りをして、雲取山頂に引き返して再び山頂に立った。赤城さんの言葉を想い出して、何度もくだる方向を見定めていると、前方に灯がちらちらと見えてきた。その光はかなり大きく、最初は近いところに感じられたが、よく見ると遠いところのようでもあった。方向は赤城さんのいう通り向こうであるので、その光に向かって再びくだる決心をした。
先程の大きな木のところに着いたので、今度はしゃがんで足跡を丁寧に撫でながら進んだ。足跡は、大きな木の右を回って登ってきていることが分かった。先程は大木の左をくだってしまったので、足跡を見失っていたことが分かった。
月明かりに照らされた雪の面に、ちらちらと細長い三角形の光がたくさん踊っている。周囲に聳え立つ木々の細かい枝の中を通り抜けてくる月の光が、雪面に細身の月の姿をたくさん映しているのだ。
しばらくすると右側の奥でギーと、ドアーの開く音がした。そちらを見ると、背の高いおとぎの国の洋館風の建物の大きなドアーが開いたように、一瞬見えた。またしばらく進むと、左後ろの遥か遠くで、電車の走っているゴーという音が長いこと聞こえていた。幻視と幻聴が私を襲ってきている、そう思っていても不思議と怖さは少しも生じてこなかった。

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2004.02.20

東京都の最高峰雲取山登山の思いで その3

七ツ石から、長い尾根を登り出すと次第に地面に積もった雪が現れ、やがて雪の量が多くなって地面が見えなくなってきた。なお雪が増えてきているころ、突然前方から人が一人くだってきて私に話し掛けてきた。その人は自分の靴からアイゼンを外すと、私に付けるようにとアイゼンを置いて再びくだっていった。
地下足袋に履き替えていた私はそのアイゼンを付け、更に進んでいくと遂に雲取の頂上に出たと思われるところに着いた。そこは少し広く、なだらかで、確かに一番高いところであった。月は真上にあって近く、すごく細身であるがとても明るい。足の下は白く光っていて起伏が少なかった。
雲取山頂を向こうへ、赤城さんから教えてもらっていたことを思い出し、復唱しながら、深くなっている雪の上に付いている一人分の足跡の窪みを丁寧に追った。さっき出会った人の足跡に違いないと思って追った。
少しくだったところで道の真ん中に大きな木があり、そこで足跡を見失ってしまった。しゃがんで、雪の表面を手で撫で回して探したが、登ってくる足跡は見つからなかった。

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2004.02.19

東京都の最高峰雲取山登山の思いで その2

雲取山に登るための地図というのは、真っすぐに登ると横から来ている尾根に突き当たるから左に行くこと、すると雲取の頂上に出るから、頂上を越えて真っすぐに向こうに行く、しばらく行くと左側に雲取小屋があるから、小屋に入ったらカマセンという人に赤城の友人ですといいなさい、というものであった。
私の出立ちといえば、父親の革靴を履いて父親のオーバーを着て赤城さんに借りたやや大きめなリュックを背負った姿であった。リュックの中には米一升を入れて、1週間居るつもりであったことだけ覚えている。
当時は未だ奥多摩湖は影も形も無かった時代で、電車で氷川まで行きバスで小さな部落の停留所に降り立った。そこから直ぐに登り始めて丁字路に着いたのはお昼をだいぶ回っていたと思う。明るいところにでて、七ツ石というところだったと覚えている。そのあたりからだと思うが、革靴を地下足袋に履き替えて登った。

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2004.02.18

東京都の最高峰雲取山登山の思いで その1

だいぶむかしになるが、その年の正月の3日、私は一人で雲取山に行くことになった。連れていってもらう約束の赤城さんが前日からのお酒に酔っていて、自分は行かれないから一人で行ってくれ、といったからである。
雲取山に連れていってもらう約束をしたのは暮れのうちで、とても綺麗なところだからぜひ行ってみなさい、山小屋にはカマセンという懇意な番人がいるから、と赤城さんが熱心に勧めてくれたからである。私が新生中学の2年か3年の時であったと思う。高い山に登るのは初めてで、それまでに登った山といえば遠足で登った高尾山くらいであった。
焼酎に酔っていた赤城さんは、粗末なノートの切れ端に簡単な地図を書いてくれたが、それはたった2本の線しか描いてなかった。1本の線が上に延びて長い横線に突き当たっている、只それだけであった。その地図の読み方の説明だけは何度もしてくれた。

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2004.02.17

野方の喫茶店 Uncle で凍傷について思い出す

2004.02.16 16:09.JPG

いつもの席に座るとブレンドを注文した。リュック入れてある本を取り出して読み始めたが、向こうの席の大柄な中年の女性の声が耳に響いて気が散ってしまう。本を閉じるとコーヒーを一口飲んだ。
ふと手を見ると、眼鏡のせいで手の平の指紋がとても大きく見える。しばらく眺めているうちに思いが浮かんできた。
私の手足の皮膚は非常に薄い、赤子のように直ぐに赤くなってしまう。たいがいの女性の手の平と比べても私の手の平の方が柔らかいと思う。両手をこすり合わせていると、この手指の先の皮膚が、ちょうど指先にはめるゴムサックを取るときのように、スッポリと取れてしまった昔のことを思い出した。
私の両手の10本の指先は、かって第一関節あたりから先がスッポリと取れてしまっているのである。手ばかりではない、足の指先と踵もスッポリと取れてしまっている。そのほか耳の縁も取れてしまっている。中でも足の踵が一番厚く取れてしまい、厚いところで5ミリくらいあったと思う。
皮膚が凍傷で腐って取れてしまったのである。皮膚が腐り終わって取れるまで、2ヶ月以上かかったように覚えている。腐った皮膚が取れるまでには、その腐った皮膚の下に新しい皮膚が育ってきていなければならなかった。腐った皮膚とその下の新生皮膚を、2ヶ月以上にわたって両方おいて置かなければならなかったので、寝ている時に体温が上がって痒みがつのり、痒い痒いと大騒ぎしていたことを微かに記憶している。
どうしてこうなってしまったのか。その原因を知るためには、どうしても私の若かりしときの思い出に入っていかなければならない。
喫茶店の中が静まってきたので、私は再び本を手に取るとページを繰って続きを読み始めた。

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2004.02.16

中野区野方「野方-金時煎餅」の旨い煎餅

2004.02.16 18:21.JPG

散歩の帰り久しぶりに「金時煎餅」に寄った。最近買っているは、小丸、エビせん、青のり小判の3種類で、今日もこの3種類を買った。この店は昭和8年に創業され、2〜3年前にリニューアルして瀟洒な店になっている。店に立っているのは若女将で、以前の店には大女将が出ていた。
だいぶ前に、10品位を1品づつ箱に詰めた手ごろな値段の品物を買ったことがあるが、私には煎餅が立派すぎてどうにも歯が立たなかった。軽くさっくりとした小型の煎餅の方が今の私には似合っている。
私には妙な癖があって、大きな立派な煎餅を食べるのは苦手で、幾つかに割った煎餅の方が気楽に食べられるのである。だから、立派な煎餅を割ってしまうか、いつまでもそのまま置いておくことになる。たぶん子供のころ、立派な煎餅は飾っておきたい宝物だったからに違いない。
商品一覧をみると、全国菓子博名誉会長賞受賞・「豆かき」軽い歯触りの豆入りおかき、同じく「金時」本格手焼きの醤油味を始めとして、とてもたくさんの種類の煎餅とあられとおかきが作られている。
この店と出会ったのは、私の師匠が野方に越されてからで、かれこれ10年以上も前になると思う。店は、西武線の野方駅と関東バスの野方停留所との間の賑やかな通りに、こじんまりとあった。
出会った当時は、昔風の煎餅屋で、昔よくあった煎餅の入ったガラス瓶も置かれていた。一度買ってみると、その懐かしい醤油味は私を虜にしてしまったのである。私は昔から醤油味に凝っていて、まだ追及の手をゆるめていないし、その気もない。
商品一覧に載っている品数は86種類に及んでいて、電話の注文で宅配もしてくれるが、私は2週間に一度だが師匠の家に通う散歩の時に立ち寄って、若女将の顔を見ながら買うのが楽しみなのである。
TEL/FAX 03-3330-0273、定休毎週火曜、特売毎月最終金曜。
煎餅の入った紙袋を貰うとリュックに詰めてバス停に向かった。

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2004.02.15

南の夜空にオリオン座をみる

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このところ空に星を見たことはなかった。今日18時半ころ見慣れている南の夜空にオリオン星座を見付けた。昨日春一番が吹いて今日は朝から温く大空が晴れ上がっていた。
今日のテレビで、蜃気楼がゲルマン民族の移動を促したという話を観た。その時、日本人も太陽族であるから、きっと日食現象が古代人に大きな影響を与えていたに違いない、と思った。
何時も気になっていたことが浮かんできた。卑弥呼という文字である。この文字が示すイメージに私は何時も困惑を感じていたのであるが、突然、 永井俊哉のサイト の中で卑弥呼の文字を見ていたことを思い出した。
永井俊哉講義録の中に「卑弥呼としての天照大御神」というのを見付けて読んでみた。やはりそこに「卑弥呼(ヒミコ)は、「日巫女」ないし「日神子」ないし「日御子」という意味であったと推測される」とあった。
このような意味の「ひみこ」が、中国流に発音されて音訳され「卑弥呼」となっていたのであろうか。私は自分の中の「卑弥呼」のイメージを「日御子」に変えたいと思った。
さて、ベランダに関西嫁菜の鉢があり、家に来てもう足掛け3年になる。若葉もだいぶ伸びてきて、そろそろ嫁菜ご飯にして食べられる頃であるが今年はもっと大きく育ててから摘み草をしようかな、と思っている。

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2004.02.13

四象八卦:「易経」二万数千字を四ヶ月で暗誦

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「易断に見る明治諸事件・西南の役から伊藤博文の暗殺まで」片岡紀明・中公文庫 に依れば、高島嘉右衛門が易に目覚めたときのことを次のように書いている。
「かれは、獄中で得た「易経」をくり返し読み、読んで暗誦し、暗誦した個所を自分なりに考えてみる。それをくり返し、くり返し、さらにくり返して、かれはその二万数千字を四ヶ月で暗誦するにいたった。かれは心の底に、稲妻のようなひらめき、雷鳴、震動させるものを感じた。
その瞬間、「妖夢たちまち覚め、精神の広大さ意思の壮快さ、一身が天地と一体になったように感じた。生死が自分にあることなど、まったくわからなくなった」のである。
それが文久元年(1861)、嘉右衛門、30歳のことだった」
この高島嘉右衛門が読んだ「易経」というのはどのようなものだろうか。「易の話」金谷治・講談社現代新書に依ってみてみると、次のような書き出しから始まる。
「儒教重要な教典の一つとして五経の筆頭に置かれた「易経」はうらないの書であると同時に、深遠な哲学をもつ書でもある。」
これを更にみてみると、「易経」の成立の過程で特に私の目を引いたのは、「易」の成立についての有名な伝説で、次のところである。
「すなわち、伏犠は八卦を作っただけでなく、さらにそれを重ねて六十四卦とし、文王は紂のためにとらえられて幽囚の身となったが、その艱難のなかで卦辞を執筆し、文王の子の周公旦がそれを補って爻辞を執筆したというのである。」
ここで私は、高島嘉右衛門が獄中にあって目覚めたときのことと、文王が幽囚の身で艱難のなかにあったこととが、易の世界を体現することにおいて、重要な敷居であったのではないかと思うのである。
64卦象の易の世界にまず身を置くところから、高島嘉右衛門は太極を見る逆旅に出たのだと私は思う。

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2004.02.12

四象八卦:占筮50策で何を見るのか

乾坤という八卦の世界からどのように出て、どのようにして戻ってくるのかを考えてみる。
易を占うのに占筮をもって行うところからこの探求の旅を始めてみよう。
まず、その筮竹の本数が50本に至った経緯をみてみると、「河図」の数55から始まり、奇数である天の数25、偶数である地の数30の和であるところから、天の数25に合わせて地の数も25とし、天地の数として50を見出したとされている。
次に、占筮法では1策を天地としてこれを人に擬して人策とし、残る49策を人の変をみる策とし、分けて左を天策、右を地策とし、策数をかぞえるのに4本ずつとし、その余りを数えて卦の象が得られるとしている。
ここにみられることは、2分して4で除し余りを数えて3画の八卦の象を得、これを重ねて6画の64の卦の象を得ているということである。
乾坤の八卦から出るのに、このように八卦の象を重ねて6画の64の卦の象を得る、という方法を使っていると考えられる。
占筮法を更にみると、説卦伝の「往くを数うるは順、来を知るは逆なり。故に、易は逆数なり」ということに注目させられる。得られた卦象を下から逆に求めれば、天は上から順にあらわれるという。ここで、逆に求めるとき時は下から上へ進むとしていることにも、注意を払うことが必要と思われる。
これらのことを俄に考えてみると、八卦象の現実から64卦象の世界を経過し、再び八卦象の現実を見ている図が浮かび上がってくるように思われる。
つまりこの図は、到達した64卦象の世界から逆に太極を求め、天は両儀四象から八卦まで順に下って現実の世界に至り、更に順に下って64卦象の内奥の世界に達し、元に戻って来るという図なのである。
この現実の世界である八卦象の世界から出て、64卦象の内奥世界に達し、そこから逆に観ることのできる太極をもって、八卦世界を見極めようとしていると思われる。

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2004.02.11

四象八卦:元とは何であろうか

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往く道、つまり一次元の場合を表す線では線上を往くことしか現すことができない。往く道は、ここ西荻ドトールに来る途中で思い浮かんだのであるが、二次元の面、つまり行き来することができる道は、一次元の往く道の内部に生じていると考えられる、ということなのである。
従来、高次元になるほど低次元を内部に含んで外側に大きくなっているとされているが、先程気が付いたのは、これとは逆に一次元が最外側にあり、高次元になるほどその内部へ深まっていくと考えられる、ということである。
つまり往く道である時間は、現三次元のこの世界を基本的に支配していると思われる。これは一次元が両儀であり、二次元が四象、三次元が八卦であるとする世界と相似の世界ではなかろうか。
王船山は、無極にして太極とは極まらないことがないことという、つまり自己運動の原点を持つことができないことはないといい、それを無極にして太極といっている。そうであれば、次元がないことを太極ということができるのではないだろうか。
変化は、低次元から高次元になるにつれ複雑なものになると考えられる。そして、この場合の元とは一体なんのことであろうか。つまり、今考えている一次元から高次元についての考え方が、単独の元の次数変化として捉えられていることを、改めて考えなければならないと思われる。
ひとまずこの辺で。

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2004.02.10

四象八卦:四象とは何か

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「易のはなし」高田淳・岩波新書によれば、明末の王船山(1619〜1692)の易哲学を述べながら、太極即両儀、両儀則四象、四象即八卦の相即論が紹介されている。
まず太極に生ずる両儀とは何か、両儀とは太極の中に具足する陰陽の両のこと、儀とは陰陽が森然として乱れない条理をそれぞれ持つことをいい、このような陰陽奇遇の両儀が六十四卦全体の中に感通し、渾成する乾坤の運動として生成することをいう、としている。つまり、無画の太極はそのまま一画の両儀であり、一画の両儀はそのまま二画の四象であるとしているのである。
四象とは何か、両儀が即ち四象であり、その四象が即ち八卦であるとしている。ここで既に二画の両儀がそのまま三画の八卦であるとしているのである。
即そのまま画が運動するという太極の展開は、一体何を意味しているのであろうか。なぜこのような考え方をするようになったのであろうか。
敷居と敷居値から四象八掛に至った私の考え方によれば、この八卦の世界とは、通俗的な説明方法をもってすると、四次元の世界から観た現三次元の世界の描写であり、この描写を後世に伝えるために思想的な表現をとったものということになる。
二次元平面から超二次元平面即立体をを透して自らの二次元平面を観ている時の描写をしたとすると、きっとこのようになってしまうに違いないと思う。つまり、八卦の世界というのは、三次元の物体から超三次元物体即四次元の物体を透して再び三次元物体を観ていると考えられるのである。
取り合えずこの辺で。

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2004.02.09

四象八卦:高島嘉右衛門

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今日は西荻ドトールの2階の窓際の席に座って、何冊か持っている「易」の関係の本の中から「易断に見る明治諸事件・西南の役から伊藤博文の暗殺まで」片岡紀明・中公文庫という本を読んだ。
数年前に読んで面白かったので大事にしまっておいた本である。この本の前に、高島嘉右衛門について初めて知った平野威馬雄の本があったのだがいま手元にはない。ネットで検索してもそれらしい本はヒットしないのであるが、たしかにこの仏文学者の面白い本を読んでいるのである。
「易断に見る明治諸事件」のページをざっとめくってみると、高島嘉右衛門は天が示し申す言葉を確かに聞いており、易を神と人が交話する術であるとする彼の確信は、最もよく易の神髄を示していると私は思う。
現実世界の中で物が変化していく先を見極めることは簡単なことではないが、出来なくはないものもある。太陽が明日確実に登ることは分かっていても、天気の予報はそれほど確実ではないし、何時地震が起こるかも分からない。
易は、四端六面の世界を包む四象八卦の世界を表そうとしているように見え、高島嘉右衛門はその四象八卦を現代において体現した極めて稀な人と私は思った。

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2004.02.08

敷居と敷居値:四象八卦に至る

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往く者だけしか通らない道から、往く者来る者が通る道となる。道に両端があれば、建物には三面があり、両端の中に中道があれば、三面の中に座敷がある。つまり、両端は四端を生み、三面は六面を生む。
四端は東西南北を生み、六面は上下左右天地を生む。易に四象があれば、八卦を生む。
このように見てくると、易は大いに研究しなければならないと思う。
メモの続きはまだまだ続きそうであるが、取り合えずこの辺で。

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2004.02.07

敷居と敷居値:電流と抵抗と抵抗値

人の流れが電流に変わると、敷居と敷居値は抵抗と抵抗値に変わるのではないだろうか。以下にこの観点からの私メモを綴ってみることにする。
ここで注目することは、一つは流れであり、進み続ける方向性を持って流れるものが重要であり、二つ目は二つの項目ではなく、三つの項目として捉えるということであり、たとえば人と敷居と敷居値であり、電流と抵抗と抵抗値である。
人の流れが水の流れに変わると、敷居と敷居値は堰と堰高に変わるのではないだろうか。川の流れは三つの項目、水と石と石の大きさ、水と管と管の太さなどと捉えられる。これは、流れを流れるものと、流れを阻むものと、流れを阻む値、となる。
つまり、ものは流れる。流れると流れを阻むものが現れる。阻むものには阻む大きさに値がある。
このように、敷居と敷居値はこの世に普遍的な、ものの流れを捉える視点の一つを与えている、流れに開いた覗き窓であると私は思う。
メモの続きはまだまだ続きそうであるが、ひとまずこの辺で。

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2004.02.06

敷居と閾値、旅と道と12経絡

2004.02.02 16:44.JPG

このところ、しきりに敷居のことが想いの中をよぎる。敷居があるのはたいてい建物とか屋敷やお寺の門、つまり囲まれた区域に出入りするときに跨ぐ位置にある。
考えてみると、私たちは既に敷居の中にいるのである。いつ跨いで入ったかも、いつ跨いで外に出られるのかも分からない。しかし、むかし旅をする人は、村に入るとき、村を出るとき、家に泊まるとき、家を出るとき、その度に敷居を跨ぐときの高鳴るときめきを感じていたに違いない。こう考えてみると、この世の中は敷居だらけである。
閾値として知られている数々の数値は、この敷居を跨いで続く次の世界に入っていくときの、敷居の高さを数値で表しているものに違いない。つまり、跨げなかったら続く次の世界に入れないので、入らないようにする高さを表しているか、入るためには越えなければならない高さを表しているのであろう。
ところでこのとき、旅をする道というのは何であろうか。それは多分閾値の低い敷居を連ねた筋、つまり道筋のことをいうのであろう。だから多くの人が通っていった道筋が何々道と名付けられていったのであろう。
また人が通る道ばかりではなく、色々なものが通る道もこのようにして出来てきているに違いない。たとえば、渡り鳥、蝶、回遊魚など、あらゆる動くものはこのような道を通っていると考えられるのではないだろうか。
また、何が動いているのかは知る人ぞ知るというしかない、人間の身体の中に見付けられている12経絡(脉)も、敷居と考えられる経穴(つぼ)を結んで作られた道ではないだろうかと、私は思っている。
こうして考えてみると、我が家のバリアフリーというのも閾値を低くした道を作ったのだということになるが、埃をはじめ色々なものに対してもバリアフリーになっているところが面白い。

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2004.02.05

日露戦争100周年、2月5日交戦状態に突入

1904年2月5日午後2時、外相小村寿太郎は栗野慎一郎駐露公使に対して「日露交渉の断絶および帝国の独立行動に関し露国政府に通告するの公文訓令」を発した。公使はこれを直ちにロシア政府に伝えた。
その前日、4日の御前会議において、露国との交渉を打ち切り軍事行動に移ることを決議している。そして10日ロシアに宣戦布告を行うことになって、今年はちょうど100年目を迎える。
私は先日来「日露戦争」長山靖生・新潮社を読んでいるが、やっと150ページに達し、まだ50ページほどを残している。この本では1904年2月5日の出来事をこのように伝えている。
戦争を表現した文芸作品を取り上げているこの本は、それらを通じて情報の持つ力を表現していて読みごたえがある。こう私は思いながら、ゆっくりと読み進んでいる。

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2004.02.04

「敷居と閾値」をキーワードにして Google の通信路(パス)に乗る

2004.02.03 17:07.JPG

今日はネットの散歩に出てみることにした。谷中の散歩に出ていらい気になっている「敷居と閾値」をキーワードにして Google の通信路(パス)に乗った。
231の駅があるので、最初の駅 「めるがま「複雑系とビジネス」No.13〜敷居をまたぐ」 に降りてみることにした。
「閾値」は複雑系的に考えていくと、「カオスの縁」という例の魅惑的な言葉に思い当たる、と複雑系ビジネス研究会の会長・遠藤誠一郎は言っている。ここで途中下車して、このメルガマの購読者になりたいとマスターにメールを打つ。
この駅のホームの下の方にいくと大西宏氏のエッセイ( 「閾値(いきち)」の感覚 )と URL が掲げてある。途中下車していってみると、ここにも面白そうなエッセイが並んでいて、暇があったら読んでみたい誘惑にかられたが戻ってきた。
次の駅は 「松岡正剛の千夜千冊「パサージュ論」」 である。面白そうなので降りて見ることにした。
パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である、と松岡正剛は言う。そして西洋にあって個ではなく集合に深い関心を示しているのは何かと問うている。そして、集団と個人との間の線引きを「敷居」(Schwelle) と呼び、 ファンタスマゴリ な閾値をともなう敷居である、という。途中下車してファンタスマゴリアに行って見たが、ここでも面白そうな紀行が愉しめそうだったが、またの機会に譲って戻ってきた。
松岡誠剛は続けていう、「しかし意外にもベンヤミンは敷居そのものではなく、また個人が敷居をまたぐ意識のことではなく、・・・・・・敷居を通過させるようにした装置そのものにのみ関心を注いだのである。」また「パサージュとは最初に書いておいたように、通過することだ。・・・・けれども、その行為はいずれは終わる。終わってどうなるかといえば、それはどこかに配列され布置される。それが都市というもので、社会というものなのである。」と
松岡正剛は結論に近づいて言う、「写真は近代社会がつくりだした最も劇的な配列と布置を記録する方法だった。」と。そして写真家が写真を撮ったときパサージュが起こったのだといい、写真を見たものにもパサージュが起こったのだと言う。だが、パサージュを忘れた者の意識の中ではそれは複製になってしまうのだ、とも付け加えている。
私は、松岡正剛のこのファイルを読む限り、亡命戦時者であるベンヤミンは、この世界を冷徹に読み解く努力を続けることによって、(途中下車をして訪れた 「ドイツの学生の光と影」ブルシェンシャフト に通過者の芽をみた。)亡命の無聊を慰めていたよう思えた。
今日は2番目の駅までであったが、この駅はこのあたりにして散歩を終わることにする。

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2004.02.03

敷居と敷居学とパサージュ散歩

2004.02.01 14:38.JPG

敷居は日本で生まれたのだろうか、お寺の門にある敷居は中国からやって来たのではないだろうか。
中国の敷居を知るために中国人である私の師匠を訪ねた。山東省には最近まで敷居のある屋敷の門などが残っていたが、取り壊されて今風の建物に変わり、敷居は無くなったそうである。この敷居は取り外し式の敷居で高さが50センチくらいもあって、子供のころは出入りに苦労したそうである。
お寺の門にも高い敷居があって、昼間扉を開けているときには敷居も外し、休む時と夜にはこの重い敷居を取り付けて扉を閉めたのだそうである。この敷居は境界を示しているものなのだそうである。
ネットで検索してヒットした中に、 前川 修:メニングハウス「敷居学 ベンヤミンの神話のパサージュ」 というのがあった。前川 修の評言をみると、メニングハウスは、「敷居」とは通常、空間や時間を分け隔てている縁や境であると見なされているが、ベンヤミンにとっては逆に「敷居」は、異質な領域をつなぐ媒体(メディア)であったとし、ベンヤミンは敷居学の実践者(あるいは都市の街路をすり抜けていく遊歩者)だとしている。
評言はまた、メニングハウスはベンヤミンを「パサージュ(通過、移行)」の人と見なした結果、彼のテクストは無数の通路(パサージュ)から織り成されたハイパーテクストなり、読むものをさらに無数の通路へといざなうメディア=敷居となる、とした観点に立っているいう。
ここで私の注意を引いたのは、「敷居」が人間にとって通常であり、日常の通路の至るところにあり、その日常の通路は敷居を伴って非日常の迷路にも繋がっているらしい、ということである。
ネットでまた、日常のパサージュ散歩というのが見つかった。 中村浩美のページ によると、パリで、新しい愉しみを見つけた、そうである。パリにパサージュが出現したのは18世紀末、ガラス張りの屋根を持つ商店街でギャルリ(歩廊)とも呼ばれ、19世紀には40ヶ所ほどあったそうである。20世紀にはすたれてしまったが、近年見直されて17ヶ所ほどが現存しているそうである。
こうして私の散歩道も Musashino の Promenade から敷居を越えてパリのパーサージュまで、ネットを通過して広がりを見せ始めている。

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2004.02.02

敷居(しきい)と閾値(しきいち)

2004.02.01 15:00.JPG

谷中銀座の中華料理店で美味しい四川坦々麺を食べた。そこを出てからまもなく、狭い横丁に入って道なりに歩いた。だいぶ前から気になっていたことがはっきりと心に浮かんできて、そのことを考えながら歩いていると、瀟洒な喫茶店の前に出ていた。
心に浮かんできたのは、お寺の門にある敷居と閾値は同じイメージなのではないだろうか、読み方は「しきい」と「しきいち」または「いきち」である、という想いである。
こちらの領域からあちらの領域に渡るところに敷居があると考えると、閾値もまた敷居と同じように、その値を越すと新しい領域になることを示している、と考えられるのではないか。きっとそうに違いない、とまた歩きながら考え続けた。
ネットで敷居を検索して見ると、古くは室内で居る場所に敷いたもののことを言っていたらしい。それが室内を仕切るものに代ってきて、平安時代には御簾(みす)、几帳(きちょう)という敷居が室内に置かれて、男女の間を隔てる敷居になっていたという。
閾値は、その値以下では変化(反応)が起こらないが、その値を越えると変化(反応)が起こる場合のその値のことで、生物系、物理系の領域で主に使われている。閾値はこの値のところが敷居になっているように、私には思える。
(Threshold dose) を閾値と翻訳したのは名訳なのか迷訳なのか、また謎訳なのか、私にはよく分からない。
お寺の門には必ず敷居がある。そして人は敷居を何度もよく跨ぐ。またこの間まで我々が一般に住んでいた日本家屋では、家に入るとき玄関の敷居を必ず跨いでいた。人は毎日のように敷居を跨いでいたのである。
敷居、閾値はそればかりではく、動いているところ必ず変化の敷居があり、変化するところ必ず閾値があると考えると、無数にあるといえる。
人は毎日たくさんの敷居、閾値を何気なく跨ぐことで生活している。そう考えると最近我が家が取り入れたバリアフリーの部屋も、一つ二つのバリアーを無くしたくらいで敷居が無くなったと考えることもない、と思えるようになった。

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2004.02.01

谷中霊園のキササゲ

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今日の散歩は、山手線日暮里駅から紅葉坂をとおり、谷中霊園を抜けて上野まで行った。
谷中霊園を出たところの霊園事務所に寄って谷中霊園案内図を貰った。ついでに入り口にある掲示板を何気なく見ていると、キササゲの木の記述があるのを見つけた。江戸の昔、キササゲは背の高い木なので避雷針代わりにお寺などに植えられ、当時は目立つ木であったなどとあった。
話しや写真では承知していたが、実物にお目にかかったことはなかった。もういちど霊園事務所に行ってその場所を尋ねると、こころよく案内してくれた。
五重の塔から西へ、霊園の外れにキササゲは枯れた鞘をつけて聳え、遠くからよく見えた。話によると枯れ掛かっているそうであるが、キササゲは幹の先が伐られているうえ落葉樹なので葉が全て落ち、枯れた鞘だけが垂れている姿は、確かに枯れていると見まがう。
キササゲのサヤは枯れているが、長さ30センチくらいでササゲにそっくりの姿形をしている。採ってもらった鞘の中を見ると、茶色の小さな薄くて軽い種が両わきに綿毛を付けて一杯詰まっていた。
キササゲをネットで検索してみた。中国原産のノウゼンカヅラ科に属する落葉喬木で日本に渡来したのは古い。今では野生化して普通に見かけることができる帰化植物のひとつで、中国から渡来した当初から腎臓に特効のある漢方薬として、またこの木に雷が落ちたことがないことから雷よけとして、神社、仏閣、屋敷内などに植えられたとある。
谷中霊園にあるキササゲが雷よけに植えられていた背の高い木とすれば、江戸時代の絵図にそのことが描かれていてもいいと思った。

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