« 井の頭公園のお花見ルートを散歩-花が散り始める | トップページ | 井の頭公園夜の花見の乱闘をテレビで観る »

2004.04.04

好き嫌いは人にとって自由なのか拘束なのか

2004.04.02 17:11.JPG

ケイズナチュラルガーデンのVOL3 2004Apr 1 を読んでいいた時、代表の k さんが書いている「野菜がくれる力とよろこび」の中のある文章に目がとまった。

「それから、野菜というと、私の父が好きだったことなどを想いだします。私の父は、若い頃から肉、魚の類、所謂生臭ものを一切口にしませんでした。「食うぞと言って逃げるものは食わないのだ」と言って自己弁護に忙しいようでしたが、主義主張などの類とは無縁の、単なる好き嫌いに他なりませんでした。」
私はこの話を読んで、「食うぞと言って逃げるものは食わないのだ」という言葉に目が覚めるような閃きを感じ、一瞬に、私が今まで出会ってきた「好き嫌い」のいろいろなシーンを思い出した。
先年の暮れ、カスピアンという店を予約してディナーを食べに寄ったときに起こった、友人の「好き嫌い」のことは、私には忘れられない。
スープは奇麗な濃い緑色をしていてとても旨そうであった。どろりと重たいスープをスプーンで口に運ぶと、程よい甘味があってとてもおいしい。ふと目を上げると、前の席に座っている私の友人の一人が全くスープに手を付けていない。”あ、Mさんはホウレン草駄目だったんですね、すみませんでした。よく調べておかなくて。”と私は謝った。Mさんは”私は嫌いじゃないんだが、体が拒否するんでね。”と真顔でいった。その後出てきたメインディッシュのステーキの回りにも、このホウレン草のスープがたっぷりと満たされていた。Mさんは手をこまねいているだけで全く食べようとせず、ステーキは丸のまま残されてしまった。
もう一つ忘れられないことがあった。昔のことだが、漬け物が嫌いで見ると吐き気がする、と言ってはばからない男に出会って、或ることから一緒にバーに寄ることになったことがある。
飲み始めてだいぶ時間が経った頃、突然何やら分けの分からない怒鳴り声が聞こえた。振り向くと、くだんの漬け物大嫌い男が怒鳴っているのである。怒鳴り止まない男の顔を見ているうちに、その顔に恐怖心が表れているように思え、私は思わず”片付けて片付けて”と、立ち尽くしているママを促したのである。まるで猫嫌いが目の前の猫を追い払うように、手を振り続けている男の姿を、皆あぜんとして見つめていた。お開きになって私は、冗談ではないこともあるんだ、と肝に銘じたのである。
私のことであるが、子供の頃にイカの塩辛の大好きな父から”旨いぞ食べてみろ”と何度もいわれ、すっかり嫌いになったと思っていた。後年、友人の家で、黒光りがして旨そうだが何やら分からぬものを御馳走になったことがあった。聞くと、それはイカの墨づくりだという。私はそれからイカの塩辛が嫌いではなくなったが、好きだという程では今もない。
この程度の”好き嫌い”であった私が感じる、この世の中の”好き嫌い”人の世界はほんのさわり程度のものであると思う。もっと深い、体が意志に反して”好き嫌い”を強要し指図するなどという、想像を絶する世界はそこに行った者にしか分からない。私は、安易に自分の世界からしか見ることができなかった愚を知った。しかし、いつもの例でこのこともまたすぐに忘れてしまうと思うと、その時々の想いを書き記しておくほかない。

|

« 井の頭公園のお花見ルートを散歩-花が散り始める | トップページ | 井の頭公園夜の花見の乱闘をテレビで観る »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/12847/394782

この記事へのトラックバック一覧です: 好き嫌いは人にとって自由なのか拘束なのか:

« 井の頭公園のお花見ルートを散歩-花が散り始める | トップページ | 井の頭公園夜の花見の乱闘をテレビで観る »