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2004.05.31

「しきり」の文化論を読む-02

04.5.29 15:56.JPG

第1章「しきるということ」において著者柏木博はいう。「「しきり」に現れる文化の違い」の中で、日本では狭い住まいを塀で取り囲んでいるのが一般的であるが、欧米の人々は住まいの塀を設けていないのが普通であるということから、「欧米の人々は、住まいの囲い(塀)は設けないにしても、日常の生活の中で、それとは異なった形式で自己の保護と防御を行っているはずだ。」と。

著者は続けていう。「二〇〇一年九月十一日、ニューヨークの世界貿易センタービルへのテロに対する反応が、アフガニスタンとイラクへの爆撃に見られたような攻撃と大量殺戮であったことは、今日のアメリカにおける自己の保護と防御が、住まいの塀どころではなく、いかに巨大な暴力の形をとっているかを示している。それは、日本人が住まいを塀で囲うという内側に向かう反応とは違う。他者への暴力という外側に向かう反応である。」と。
私は私の観点から考えてみたい。住まいを囲むというところから日本と欧米の文化の違いを見ていくというのは、一見わかりやすい入り口に見えるが、果たしてそうであろうか。
日本の城は殿様の家であり石垣や堀で囲われているが、家来の家は城の外にあって囲われてはいない。欧米や中国では都市が丸ごと城壁や塀で囲われているし、国境を塀で囲んでいるところもある。パリやローマ、長安の都など、ベルリンの壁や38度線、万里の長城などがその典型であろう。
人が住む領域の保護と防御は人の歴史と共にあって、それは戦争の形で存在し続けて今日に至り、人智による戦争以外の解決の方法は今まで見いだされたことはない、と私は思う。
二〇〇一年九月十一日、ニューヨークの世界貿易センタービルへのテロに対する反応は、人がまだ未熟であることを示している、と私は考える。傲慢にも成熟していると考える人間が、歴史的な戦争の技法が有効であるとして先制攻撃を計画し実行したものと、私は思うのである。
つまり、つつましやかな目に見える「しきり」を置いて守りしきる人もいれば、「しきり」を目に見えないようにし、それを越えてしきりたい人がいると考えられる。
アメリカは自らが手にしている武器を持ってすると、世界が我が手に入っていると思わなくてはならなくなり、つまり「しきり」を世界に拡大したいという思いに捕らわれ、その錯覚から逃れることができなくなっている、と私は思うのである。
今日はここまで。

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