« 「しきり」の文化論を読む-03 | トップページ | 正20面体の展開図と平面充填と秋山風数学 »

2004.06.02

「しきり」の文化論を読む-04

04.5.27 12:23.JPG

第1章2「自己と他者」の中の「コミュニケーションとしきり」を読む。著者は、「母親には何も話さなくても、了解し理解していてくれると幼い子供は感じている。ところが、何かのきっかけで、母親すら自分が感じたり考えたりしていることを、共有してはいないのだと気づくことになる。つまり、何らかの言葉によるコミュニケーションが必要であることに気づくのである。」という。

また著者は言う。「何らかの言葉によるコミュニケーションが必要であるのは、「わたし」と「他者」との間にしきり(障害)があるからだ。では、言葉はそのしきり(障害)を取り払うことが出きるのだろうか。言葉の存在そのものがどこまでもしきり(障害)の存在を前提にしている。とすれば、わたしたちは、お互いにしきりを越えて分かり合える状態、しきりを「透明」なものにすることは不可能なのである。わたしたちは、どこまでもコミュニケーション不能の部分(障害)を抱えているからこそ、コミュニケーションし続けるのである。」と。
私は私の観点から考えてみたい。赤子や幼児が泣き叫ぶのは、まだ言葉が使えない時、感じたり考えたりする前でも、欲しい触りたいという欲求を母親と共有していないことに気がついて、いらだつようになるからだろうか。この時既に他者を知ることになるのであろうか。そして、少年少女になるころになって、言葉によるコミュニケーションにより「自己」、「他者」を知るのだろうか。知るということには、その知ることの深い内容についてどこまで、どれだけと言うことがあって、一様一通りではないと私は思う。
コミュニケーションの必要性が障害(しきり)を取り除くためとすればそれは面白いだけであり、ここでいうしきり(障害)なるものがあるからこそ、そのうえにたって共通する第三の内容を共有する必要が生じ、その手段としてコミュニケーションが必要とされる、といわなければならないと私は思う。
われわれが考えている言葉がまだ完成されていない太古から、人と人は意志を伝えあって生きてきている。伝えるために言葉が分担する部分はほんの一部である。言葉をもって感情や意志や思考の全てを伝えることが出きるとするのも、出来ないとするのも、間違いではないと私は思う。言葉だけでは全てが伝えられないからこそ、いろいろな芸術や戯曲や叙事詩や小説などでつたえようとしている、と私は思う。
今日はここまで。

|

« 「しきり」の文化論を読む-03 | トップページ | 正20面体の展開図と平面充填と秋山風数学 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/12847/701415

この記事へのトラックバック一覧です: 「しきり」の文化論を読む-04:

« 「しきり」の文化論を読む-03 | トップページ | 正20面体の展開図と平面充填と秋山風数学 »