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2004.06.12

「仏教と資本主義」を読む

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今日は最終章である第7章「二十一世紀の資本主義」の気に入ったところを読んで、私なりに考えてみたいと思う。「大乗仏教の可能性」で著者長部日出雄はいう。「わが国の道昭が遣唐使に従って入唐したのは、玄奘の帰国後八年目。師と同房に住まわせてももらうほど嘱望され、最新の唯識宗を八年にわたって学び、三蔵法師玄奘が漢訳した多くの経綸を携えて、飛鳥寺に帰ったのが六六〇年で、行基が出家してかれの弟子となったのは、それから二十二年後のことでした。」と。

続けて著者はいう。「行基は、師の教説とともに、大乗仏教の菩薩行としての社会事業を受け継ぎ、それをさらに発展させていきます。そのひとつの結実である東大寺の大仏殿では、日本中の老若男女と修学旅行の生徒ばかりでなく、さまざまな国からやって来た外国人の顔が多く目につきます。われわれの多くは、自分が仏教徒であるということを、あまり強く意識していません。しかし、外国人から見れば、日本はいちおう仏教国でしょう。仏教は、一神教と多神教の性格を併せ持っていて、世界のどの宗教にも見当たらないほど、幅の広い寛容性に富んでいます。外国の学者には、仏教に神が存在しないから、宗教ではなく哲学だ、という人もいるくらいです。」と。
そして著者はいう。「自分を仏教徒とはおもっていなくても、われわれの奥底には、長年にわたって刷り込まれた地獄極楽の思想とともに、自利に先んじて利他を求める大乗仏教の哲学も眠っているはずです。だから、いま世界の悲劇の原因になっている一神教のキリスト教ーイスラム教ーユダヤ教の対立を、何とか融和させる役割を果たすことが、日本ならできるのではないかとおもうのです。もちろんそれが簡単にできるとはおもいませんが・・・・・・。」と。
私は私の観点から考えてみたい。大乗仏教の菩薩行については行基の話をここに読んで、良く分かるようになった。だが大乗仏教の流れである現在の各宗派仏教に、はたして菩薩行が存在しているのだろうか。菩薩行としての社会事業がどのような形で存在しているのだろうか。私には未だ良く見えてきていない。
釈迦仏教は小乗仏教から大乗仏教まで広大な地平を持って広がっていることは確かであり、そこには無神教からはじまり一神教から多神教までが存在していることもたしかである。日本が自利に先んじて利他を求める大乗仏教の菩薩行としての社会事業を行う、これは確かに二十一世紀に期待する日本の姿であると私も思うが、いまだその芽を見出すことが出来ないのが残念であると思う。
今日はここまで。

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■前回まで、観音様の御話を聞いていただきましたが、「観世音菩薩」という名前を「観自在菩薩」と訳し直したのが、三蔵法師・玄奘さんであったと申し上げました。 今回は、この玄奘さんが残した業績について、少しばかり御話します。年表を少しずつ刻みながらの説明なので、目に留まった項目を拾い読みして下さっても結構です。お忙しい方は、玄奘さんが翻訳した経典の多さを実感して下さるだけでも宜�... [続きを読む]

受信: 2005.04.16 13:02

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