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2004.07.26

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -02-   百万都市の誕生

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「1.江戸は世界最大の消費都市だった」の中の「百万都市の誕生」は、次のように述べられている。
「東京都の人口はおよそ1200万人。わが国の人口の一割が集まる東京は、毎月5000トンもの野菜を消費している。」

東京都のホームページ で調べてみると、現在(平成16年6月1日現在)の東京の人口はおおよそ1250万人、 東京都中央卸売市場の1日当たり野菜・くだ物の取り扱い高 は9259トン、そのうち東京都内で消費される野菜・くだ物は63.3%の5861トンとなっている。
「この大消費都市・東京のスタートは、天正18年(1590)、徳川家康が家臣団を引きつれ、江戸城に入ったときにさかのぼる。そのころの江戸城は石垣もなく、芝土手で囲われた貧弱な城で、まわりには茅ぶきの民家が100軒ばかりあるだけだった。城からのながめは茅原がつづく湿地・原野の状態だった。
 江戸の町づくりは、現在のJR御茶ノ水駅付近にあった神田山をくずし、その土で日比谷の入り江を埋め立てることから始まった。埋め立てられた日比谷一帯に大名屋敷を、山をけずった神田駿河台一帯には旗本屋敷をおき、江戸城を取り囲んだ。町人地は低湿地だったところを河川や運河を整備した土で埋め立てたり、かさ上げしてつくられた。
 町づくりが開始されると、江戸に向かって人口の大移動が始まった。参勤交代と大名の妻子を江戸に住まわせるという制度のため、全国の大名が家臣団をともなって移住してきたのである。職人や労務者なども集まった。」
#現代でいう 都市計画 はだれがどのように行ったのだろうか。「 江戸 都市計画 」でウエブ検索をしてヒットする 「天海」 について、さらに「天海」を加えて検索してみると、やはり天海僧正のデザインのようであるが、天海僧正一人で全ての都市計画が行われたとは、私には考えにくい。たくさんの人材(奉行)が参画していたと考えたいのである。
「こうして一大政治都市・経済都市の 大江戸 が誕生したが、享保6年(1721)の人口調査によると、町人の人口は約50万人、武家人口も約50万人。 大江戸100万都市の誕生 である。このほか、20万、30万の人別帳にのらない人口があったともいわれている。ちなみに、この時期のヨーロッパではロンドンが70万人、パリが50万人だった。」
#家康が江戸城に入ってから急激に人口が増加し、130年経つころには遂に当時の世界一の人口になっているという。100万人というこの厖大な人口を養う 水道水 と生鮮食料がどのように確保されていったのか、大いに興味のあるところである。
今日はここまで。

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