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2004.07.28

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -04-   江戸野菜の誕生

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「2.大名行列より野菜の大八車が偉かった」の中の「江戸野菜の誕生」は、次のように述べられている。
「江戸に集まった武士や町人の野菜を確保するために、幕府が、大名が、そして農民が、努力を開始した。
江戸の近郊は、西北に武蔵野台地が広がり、東には海や旧利根川(現在の江戸川)に面して水に恵まれ、土地が肥えた低湿地が広がるなど、地形の変化に富んでいた。こうしたそれぞれの土地の条件を生かして、野菜産地が生まれてくる。
たとえば、葛西領(現在の江戸川区など)は、水が豊富で気候が暖かいという条件を生かして、せり・くわい・れんこん・ねぎ・きゅうり・菜類などの産地になった。一方、土が深く乾燥する武蔵野台地では、大根や人参・ごぼう・さつまいもなどの栽培が盛んになった。」

##「江戸 武蔵野 野菜」のキーワードでウエブ検索してみると、面白いサイトにであった。
** 「吉祥寺新田の開発」 :次のように説明されている。
「吉祥寺駅付近はかつて吉祥寺村と呼ばれていた。吉祥寺なる寺院もないのに何故こんな名前がついたのか?その背景には新田開発の歴史がある。
江戸市中の大半を焼き払った明暦3年(1657)の大火の頃、江戸の人口は増加の一途にあった。当然、野菜等の食料も不足してくる。幕府は防火対策として市街の改造に踏み切り、大寺院や武家屋敷を移転させる一方で、人口問題と食料難を一挙に解決すべく、万治2年(1659)、江戸市民の郊外地への入植政策に着手した。代替地とともに向こう5年間は扶持米(ふちまい=給与に替わる米)を与え、造宅費用も貸し付けるから、希望者は申し出よというのである。この時、やはり大火で本郷元町から駒込に移転していた吉祥寺門前の浪人たちが中心となって新田開発の名乗りを上げた。かくして彼らは五日市街道沿いに短冊型の整然とした地割で土地をもらい、これが吉祥寺村の起こりとなったといわれる。」
** 「砂川闘争の記録」 :次のように説明されている。
「砂川を東西に横断する五日市街道は、徳川家康が江戸入府後、五日市や檜原方面から、石や木材、炭などを運ぶために整備された街道で、武蔵野の新田開発を増長させるとともに、多摩地区と江戸を結ぶ道として使われてきた。」
** 「練馬の歴史と文化財・江戸期の村々」 :次のように説明されている。
「上練馬村・・・(田柄・春日町・向山・高松・貫井・光が丘)
旧上練馬村の名主を務めた長谷川家(春日町)には、多くの古文書が現存しているが、同家の文書によると寛永16年(1639)の上練馬村の戸数が154戸であったのが、嘉永元年(1848)には494戸と3倍以上にも増えている。
「当村之儀大麦小麦粟稗並大根等、米ハ少なく御座候」長谷川家「村方明細書上帳」)と産物が記されるように、練馬大根をはじめとする野菜生産を専業とした江戸近郊農村であった。また、同「村方明細帳」からは酒・しよう油・穀物類・質物・古着・履物などを扱う商人、大工・家作職・木挽・髪結などの職人(主に農間渡世)が60人以上もいたことがわかる。」
** 「水路網が支えた水の都・江戸」 :次のように説明されている。
「江戸湊が整えられ、ぞくぞくと入港する菱垣廻船や樽廻船が日本各地の産品を江戸湊にもたらした。加えて、玉川上水が武蔵野台地上に農地を広げ、利根川東遷・荒川西遷で埼玉の村々も生産の場を広げ、米、土産野菜、青菜から味噌、醤油、薪、炭など、それまでの上方からの「下り物」に代わって、地回りの「下らない物」が水路網を通じて江戸に出回るようになった。」
今日はここまで。

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