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2004.07.29

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -05-   ヤッチャバのにぎわい

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「2.大名行列より野菜の大八車が偉かった」の中の「ヤッチャバのにぎわい」は、次のように述べられている。
「各産地の野菜の多くは、河川や運河を通って船で江戸市中へ運ばれた。あるいは、青梅街道・川越街道・厚木街道などの脇往還といわれた街道を、馬や大八車に積まれ、江戸へ向かって流れていった。
大量の野菜が江戸へ供給されるようになると、交通の便のよい広場などで野菜の市が開かれ、それが青物市場へと発展していく。」

##たとえば神田青物市場は、正徳年間(1711〜16)に現在の千代田区神田多町の畑に生まれ、近年太田市場に移るまでつづいたという。##
「青物市場は、掛け声の勢いもよく手早く野菜をさばく場所という意味で、ヤッチャバと呼ばれた。
神田市場は、徳川将軍へおさめる野菜(上納野菜)の御用市場だった。上納野菜の行列は、江戸っ子の自慢の一つでもある。大八車に積まれた上納野菜の先頭を切るのは、御用の高張提灯と高札。この行列が「アラッ、ヨットッ」と、江戸城へ向けて駆けだすと、大名行列も突っ切って駆け抜けることが許されていた。」
##この威勢のよさが江戸っ子気質を育てたといわれているという。##
「神田と並んで、千住と駒込にも大規模な青物市場が設けられた。これが江戸三大ヤッチャバである。前者は京成線千住大橋駅近くの稲荷神社に、後者は本駒込天栄寺の門前に、碑が建てられている。このほか、京橋・両国・本所などにも開かれた。
江戸市中には水路が張りめぐらされ、70もの河岸がつくられていたから、河岸にも青物市場が生まれた。その代表が京橋の大根河岸青物市場である。江戸をとりまく産地の大根は川を下り、三浦半島の大根は海を渡って京橋に運ばれる。そして、帰りは下肥を積んで産地へ引き返す。京橋の周辺は、江戸の消化器という重要な役割を果たしていたのである。」
##江戸が徒歩交通都市であり、庶民は貯蔵の効かない野菜は毎日食べるだけしか買わなかったことを考えると、身直に、近所に、八百屋がなくては生活できなかったに違いない。
##そこで「八百屋 江戸 初期」というキーワードでウエブ検索をして見ると、 「野菜不足だった江戸人」 というのが見つかった。そこには、「ちなみに「青物屋」というのは八百屋のこと。八百屋と呼ばれるようになったのは明治以降のことである。」とあった。ここにでてくる「近郊野菜の生産地」も面白い。##
##今度は「青物屋 江戸 初期」とキーワードを変えてウエブ検索をして見ると、 「内藤新宿」 というのが見つかった。そこには「宿は「伝馬継立」が最初の目的でした。大名や武家の旅行、情報・荷物運搬が主とする役目でした。付随して甲州街道の交通、物流とともに多摩地方の野菜や木材・薪炭などの物産が運ばれ、多摩へは肥料が運ばれました。宿には、旅籠と米糠を扱う店、 青物屋 が混在していたようです。」とあって、「青物屋」がでてくる。ここにでてくる「追分け」も面白い。
また 「★No-002【野菜を売る店をなぜ「八百屋」っていうの?】」 というのも見つけたが、なぜ明治から「八百屋」となったのかはここではふれていない。
私の疑問だが、「八百屋お七」といのは「「八百屋」という名の青物屋のお七」ということなのであろうか?##
今日はここまで。

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