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2004.07.30

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -06-   ゴミの埋め立てで陸地ができた

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「3.本格的野菜づくりは海辺で始まったー江東・江戸川地区に関西の農民がタネを持って上陸」の中の「ゴミの埋め立てで陸地ができた」は、次のように述べられている。
「急増する江戸の人びとに向けて、いち早く本格的な野菜づくりが始まったのは、江戸東部の深川(現在の江東区深川)や砂村(同北砂・南砂など)といった海辺の土地である。当時、主な輸送機関は船だったために、海沿いの地が早く開けたのである。現代と同じように都市生活から出たごみなどを船で運んで埋め立て、遠浅の海岸がどんどん陸地に変わっていった。」

##ごみの埋め立てで陸地をつくるという技術はすでに大阪湾などで確立していたのだろうか。それはどんな仕掛けであったのだろうか。都市生活から出たごみの主なものは何だったのだろうか、生ゴミはどのように処理していたのだろうか。##
##「江戸 埋め立て ごみ」をキーワードにウエブ検索をして見た。そのなかで 「お江戸でござる」という面白いサイト があったので、その記事を次に引用してみる。
「江戸も当初は埋め立てが進められ、人口も少なかったのですが、江戸の繁栄とともに人が流入して、空き地が少なくなりました。それまで、空き地や菜園に塵芥を捨てて自然分解させていましたが、だんだんそれも難しくなってきました。
「火事と喧嘩は江戸の花」と言われますが、江戸は度々大火に遭っています。ダイオキシン問題での焼却禁止ではなく、家屋密集地での火災予防で、空き地での)焼きを禁止しました。
塵芥処理が空き地でできなくなりますと、江戸の町々を繋いでいた水路(運河)にゴミを捨てる者が多くなり、幕府は水路への塵芥を捨てることを禁止する通達を出しています。
「水に流す」ことで解決することが習性の日本人は、それでも水路にゴミを捨て続けました。幕府は永代島の浅瀬を指定して町々でゴミを収集し、船で運搬し捨てるように指示しました。「夢の島」
「ごみ収集」の始まりです。
当初は町々の自前の船で運搬していましたが、指定場所に行く前に途中の運河に捨てる者が多かったのでしょうか、寛文2年(1662年)に指定業者に運搬させるようにしました。
業者に運搬させますと費用がかかりますので、費用は土地の大きさに応じて住民から芥銭として徴収しました。間口1間奥行き20間20坪を1小間として、月銀1分(約170円)徴収されました。かなりの高額で、長屋の住民は直接には負担していませんでしたが、家賃に含まれていたようです。
廃棄物運搬業者の登録制、ゴミ収集の有料化は江戸時代に始まっています。
江戸時代の夢の島は、本所や深川の海岸線に作られ、埋めたてられた面積は40万坪に及びました。」##
##つまり江戸時代にごみ問題が発生していて、すでに江戸的に解決していたのである。当時江戸のごみにむらがるカラスはいたのであろうか。##
「もちろん、陸地ができても住む人がいなければ町にならない。幕府は全国から入植者を募集し、特典として年貢を免除した。また、江戸近郊の野菜はつくればつくるだけ売れるといううわさも各地に伝わっていた。そのため、おもに関西方面から多くの人がやってきた。ことに豊臣氏滅亡後は、大阪に見切りをつけて江戸に来る人が多かったという。」
##私はここまで読んで、江戸が、たくさんの人を集めて非常に速い速度で、首都の形を整えていったことを知った。そのなかには優れた人材も多く集まってきていたのだと思う。そして、ごみ問題などは現代と同じ問題として存在していたことを改めて知った。
今日はここまで。

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