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2004.07.31

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -07-  摂津から来た開拓者

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「3.本格的野菜づくりは海辺で始まったー江東・江戸川地区に関西の農民がタネを持って上陸」の中の「摂津から来た開拓者」は、次のように述べられている。
「深川は、摂津(大阪府)から来た深川八郎衛門によって開拓され、入植者は野菜をつくって江戸に供給していた。その深川が町人や侍の居住地になると、更に東部の干拓が進み、同じく摂津の人・砂村新左衛門によって、砂村新田がつくられた。
砂村に入植した人びとは、郷里からさまざまな野菜のタネを持ってきた。たとえば「砂村ねぎは大坂城の落ち武者が持ってきた」と伝えられている。これは、現在の江戸川区一之江にある田島名主屋敷の古文書に、「先祖は大坂城の落ち武者である」と書かれていることからも裏づけられる。」

##深川や砂村という地名は、その場所をむかし開拓した人たちの名前によって付けられていたことを知った。私は地形の状況でそう呼ばれていたと思っていたからである。また、野菜のタネも主に関西方面から入ってきたことも知った。入植してきた人びとは今までつくっていた野菜や、食べていた野菜のタネをもって来るのは、今まで食べていたものを食べ続けることが生活の基本であり、思えば当然のことであろう。食文化はこうして伝えられ発展していったのだと改めて思う。##
「古くから生産されている京野菜のタネも持参したと思われる。その一つが、京都の壬生菜を葛西領(現在の江戸川区など)で改良した京菜で、これは第二次世界大戦後になってもしばらくは栽培されていた。」
##そういえば、むかし塩漬けにしてよく食べていたことを思いだすが、吉祥寺のデパート地下やスーパーの野菜売り場では、 水菜、壬生菜 が売られていて、 京菜 というのをみたことはない。##
「こうして砂村周辺は、ねぎ・人参・きゅうり・なすなどの名産地となり、数々の有名品種を生み出した。また、砂村ねぎがやがて千住に伝わり、千住ねぎとして改良されるというように、各地の産地づくりのもとになった。つまみ菜も、信州(長野県)野沢村出身の農民が、故郷の名産品・野沢菜のタネから砂村でつくり始めたといわれている。きゅうりやなすなどの早出し(促成)栽培もここで始まっている。各地から伝わったタネが、大きな実となって開いていったのである。
今もなじみの深い野菜である小松菜も、葛西領で作り出された。葛西一帯といえば、当時は毎年のように洪水がでた。とはいえ、どの家も水害に備えて舟をもち、生活は主に中二階でしていたから、今考えるほど危険ではなかった。むしろ、洪水のおかげで、上流から肥沃な土が運ばれてくるために、農業にとってはプラスにもなっていた。先人たちは、自然をよく知って、たくみに利用してきたのである。」
##つまみ菜もよく食べていたが、この菜が野沢菜の若葉だとは初めて知り驚いた。大根、小松菜などの若苗をつまんで間引きしたもののことだと、私は今まで思っていたからである。江戸時代にいつのまにか間引き菜に変わっていっていたのかも知れないな、と思う。今では 雪白体菜 という品種で専用につくられているという。間引き菜の方も、つまみ菜として今も野菜売り場にはよく出てきている。
今日はここまで。

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» おろ抜き大根(ダイコン) [野菜のある風景]
間引き菜とも言う。台風の影響がまだ残っていて葉野菜が少ないので、これはご馳走だ。抱える程を買っても大した金額にはならない。スーパーに出荷される様なものではない... [続きを読む]

受信: 2004.11.04 08:54

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