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2004.07.07

複式簿記の思いで-14 ニフティパソコン通信を始める

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「複式簿記の黙示録」の第3章の中の「戦国日本、天下統一の陰にひそむ知将の意思」の「33・日本近世史の謎の中心人物、南光坊天海」で岩辺晃三は、次のように述べる。
「これまで、現存する江戸期の会計帳簿を分析しながらイタリア式簿記の日本への伝播の影響について考えてきた。」つづいていう「江戸時代初期、幕閣には黒衣の宰相ともいうべき二人の僧侶が存在した。金地院崇伝と南光坊天海である。」
「34・キリシタン禁制の思想的バックボーンとなった天海の山王一実神道」で岩辺晃三は、次のように述べる。
「天海は家康の厚い信任を受け、秀忠、家光の将軍三代にわたって厚い信頼をうけることになる。1602(慶長12)年、比叡山で内部争いが起こり、すでに将軍職を譲っていた家康にその裁許が求められ、家康は天海に比叡山東塔の南光坊在住を命じ、信長の焼き打ちで荒廃していた比叡山の再興にあたらせた。南光坊天海の名は、このとき南光坊に在住したことに由来する。幕閣における天海の役割は、崇伝のように政務の表に立つものではなく、幕藩体制確立のために徹したものだった。天海が独自に唱えた山王一実神道(道教を根底にした神儒仏一致思想)がキリシタン禁制の思想的バックボーンとなったのである。」つづいていう、
「1613(慶長18)年に幕府は「関東天台宗法度」を制定し、天海に授けた。これによって、関東の天台宗は天海の支配下に属することとなり、本山延暦寺をしのぐ特権を認めた。天台宗は昔から仏教界最大の宗派であり、世俗的にも勢力が強かった。その総本山の延暦寺は朝廷の直接支配下にあり、幕府にとっても不安材料の一つとなっていた。この法度によって天台宗の勢力を二分し、さらに天台宗の中心を関東に移したのである。また同年、下野の日光山を管理していた座禅院の権別当昌尊が一山宗徒と反目し職を退き、法統途絶の危機となったため、家康はその後釜として天海を日光山座主に就かせた。」
いよいよ「複式簿記の黙示録」第3章は後半の部分、「天海・光秀同一説の背後に隠された「秘数」」に入ってきた。ここまでは天海の登場を述べている部分であるが、信長がおこなった宗教対策をふまえて家康が宗教対策に天海・光秀を起用した考えると、なおよく解ると私は思う。
さらに続けて著者岩辺晃三は述べる。
「これらの処置は、信長の比叡山焼き打ちにより衰退した比叡山に対して、関東の地で幕府の力を背景に天台宗を再興し、自分の支配下におこうと企てた天海の意図とも合致するものだった。天海は延暦寺に対抗する天台宗の大寺として、喜多院のほかに、1624(寛永元)年、江戸上野忍岡に東叡山寛永寺を起工している。山号を東叡山、寺号に当時の年号をあてたのは比叡山延暦寺を念頭においたものにほかならない。」
こうして天海は、家康の帰依を受け絶大な権勢を築いたのである。これから現れてくるであろう「秘数」とはどんなものであろうか、その謎の展開に大いに期待しよう。

団体の会計業務を進めるかたわら、ニフティパソコン通信を始めた。モデムは2400bpsからはじめて、ニフティのソフトをインストールしてパソコン通信の様々な世界を探求した。もっぱらロムしているばかりであった。そのころには、まだインターネットのブラウザーはモザイクであり、日本語サイトは数える程しかなく、面白いものはなかった。流行先端技術に接触しているだけで満足していたのである。
今日はここまで。

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