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2004.07.08

複式簿記の思いで-15 団体の会計業務は年に一度の経験

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複式簿記の黙示録」の第3章の中の「戦国日本、天下統一の陰にひそむ知将の意思」の「35・日光東照宮の縄張りを行った天海と高虎」で著者岩辺晃三は、次のように述べる。
「天海が歴史の表舞台に登場するのは、家康が亡くなってからである。家康が駿府で1616(元和2)年に亡くなり、久能山に吉田神道(唯一神道)にのっとって仮埋葬された。しかし、家康の神格化にともなう追諡神号と祀り方をめぐって、金地院崇伝とのあいだで論争が起こり。崇伝が家康の霊位を吉田神道によって「大明神」として勧請することを主張したのに対し、天海は天台の山王一実神道で「権現」として祀ることを主張した。この論争は結局天海に軍配が上がり、家康は「東照大権現」として日光山に祀られることになった。家康の一周忌に霊柩を日光に移し、日光東照宮が建立されることになったのである。日光東照宮の築造は、天海が先導し、総奉行本多正純、造営奉行は藤堂高虎がつとめた。天海と高虎が相談して10月に縄張りを行い、翌1617(元和3)年4月、日光東照宮が完成した。」
続けて著者岩辺晃三は述べる。
「東照宮縁起は、「元和2(1616)年2月4日、見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に呼ばれ、神君より三人一処に末永く魂静まるところを造って欲しいと遺言された」とある。」
日光東照宮と家康と天海の関係について、私は初めて知った。著者岩辺晃三の述べるところによれば、「東照大権現=家康(本地薬師如来=山王二宮)、山王権現=天海(本地釈迦如来=山王大宮)、摩多羅神=藤堂高虎(本地阿弥陀如来=山王三宮)があてられていた」というが、この現実の人間が神格化されるのは例があるとしても、本地垂迹説によって如来となるということは、にわかに私には理解できないものがある。
天海は生前において、山王権現=天海(本地釈迦如来=山王大宮)となっていたということになるが、このようなことが当時ほかに例があるのであろうか。その後明治の初期に、家康以外の天海と高虎については源頼朝と豊臣秀吉に代わっているというところも、単なる誤りなのか、それ以外の理由があるのか、まだ追求はされていないらしい。だが、このようなことが天海僧正の意思であったのであろうか、私はそのことを探求する旅に更に出てみたい誘惑に駆られる。

団体の会計業務は年に一度の経験である。複式簿記で記帳をはじめてから年度を締めるまで1年、決算資料の作成までは更に1ヶ月余かかったが、完全な前年度確定決算にはなお数ヶ月を要していた。その間は2つの会計帳簿を起動させていたのである。
数年経たなければ経験が重ならないが、日々の記帳はそれなりの経験を重ねていったので、毎日の工夫がとても楽しかったことを今でもよく覚えているのである。
今日はここまで。

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