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2004年7月の記事

2004.07.31

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -07-  摂津から来た開拓者

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「3.本格的野菜づくりは海辺で始まったー江東・江戸川地区に関西の農民がタネを持って上陸」の中の「摂津から来た開拓者」は、次のように述べられている。
「深川は、摂津(大阪府)から来た深川八郎衛門によって開拓され、入植者は野菜をつくって江戸に供給していた。その深川が町人や侍の居住地になると、更に東部の干拓が進み、同じく摂津の人・砂村新左衛門によって、砂村新田がつくられた。
砂村に入植した人びとは、郷里からさまざまな野菜のタネを持ってきた。たとえば「砂村ねぎは大坂城の落ち武者が持ってきた」と伝えられている。これは、現在の江戸川区一之江にある田島名主屋敷の古文書に、「先祖は大坂城の落ち武者である」と書かれていることからも裏づけられる。」

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2004.07.30

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -06-   ゴミの埋め立てで陸地ができた

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「3.本格的野菜づくりは海辺で始まったー江東・江戸川地区に関西の農民がタネを持って上陸」の中の「ゴミの埋め立てで陸地ができた」は、次のように述べられている。
「急増する江戸の人びとに向けて、いち早く本格的な野菜づくりが始まったのは、江戸東部の深川(現在の江東区深川)や砂村(同北砂・南砂など)といった海辺の土地である。当時、主な輸送機関は船だったために、海沿いの地が早く開けたのである。現代と同じように都市生活から出たごみなどを船で運んで埋め立て、遠浅の海岸がどんどん陸地に変わっていった。」

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2004.07.29

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -05-   ヤッチャバのにぎわい

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「2.大名行列より野菜の大八車が偉かった」の中の「ヤッチャバのにぎわい」は、次のように述べられている。
「各産地の野菜の多くは、河川や運河を通って船で江戸市中へ運ばれた。あるいは、青梅街道・川越街道・厚木街道などの脇往還といわれた街道を、馬や大八車に積まれ、江戸へ向かって流れていった。
大量の野菜が江戸へ供給されるようになると、交通の便のよい広場などで野菜の市が開かれ、それが青物市場へと発展していく。」

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2004.07.28

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -04-   江戸野菜の誕生

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「2.大名行列より野菜の大八車が偉かった」の中の「江戸野菜の誕生」は、次のように述べられている。
「江戸に集まった武士や町人の野菜を確保するために、幕府が、大名が、そして農民が、努力を開始した。
江戸の近郊は、西北に武蔵野台地が広がり、東には海や旧利根川(現在の江戸川)に面して水に恵まれ、土地が肥えた低湿地が広がるなど、地形の変化に富んでいた。こうしたそれぞれの土地の条件を生かして、野菜産地が生まれてくる。
たとえば、葛西領(現在の江戸川区など)は、水が豊富で気候が暖かいという条件を生かして、せり・くわい・れんこん・ねぎ・きゅうり・菜類などの産地になった。一方、土が深く乾燥する武蔵野台地では、大根や人参・ごぼう・さつまいもなどの栽培が盛んになった。」

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2004.07.27

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -03-   生鮮野菜の緊急確保

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「1.江戸は世界最大の消費都市だった」の中の「生鮮野菜の緊急確保」は、次のように述べられている。
「一躍、世界一の人口集中都市になったために食料の供給が追いつかなかった。おまけに、江戸の初・中期の町人は男66に対して女34と圧倒的に男性が多かったこともあり、まさに巨大な胃袋をもっていたわけである。米は全国から年貢米が集まってきたので豊富に出まわっていたが、生鮮野菜の不足は深刻だった。当時の流行病が、江戸病みとか江戸患いといわれた脚気と鳥目(夜盲症)だったことも、うなずける。」

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2004.07.26

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -02-   百万都市の誕生

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「1.江戸は世界最大の消費都市だった」の中の「百万都市の誕生」は、次のように述べられている。
「東京都の人口はおよそ1200万人。わが国の人口の一割が集まる東京は、毎月5000トンもの野菜を消費している。」

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2004.07.25

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -01-   まえがき・加藤源蔵

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本棚の前を通りかかったので、しばらく蔵書をあれこれと手に取ってみた。先年、家を建て替えた時にほとんどの蔵書を処分したが、後で読もうと残した本がわずかばかりある。
その中の1冊「江戸・東京ゆかりの野菜と花」企画 JA 東京中央会1992年10月31日第1刷発行が面白そうなので、今日から読むことにした。

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2004.07.24

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-12

昨日の「暦の知恵・占いの神秘」を読む-11において「尭典」についての記述を飛ばしてしまったので、今日改めて「尭典」について読んでみたい。
第2章「暦と数の知識」の「<十二支>と月の割り当て」において、著者永田久は次のように述べる。
「十二支は月を数える数詞だと述べた。それではどのようにして、<十二支>を月に割り当てたかについて述べよう。
一年とは、季節の移り変わりの周期、春夏秋冬ひと巡りである。一年には十二回月の盈虧が起こるので、一年を十二か月とし、春夏秋冬を次のように定めた。
・・・・春・・・・正月・・・二月・・・三月・
・・・・夏・・・・四月・・・五月・・・六月・
・・・・秋・・・・七月・・・八月・・・九月・
・・・・冬・・・・十月・・十一月・・十二月・
さらに、各季を三つに分けて、猛、仲、季とした。すると、
・・・・孟春は正月・・仲春は二月・・季春は三月
・・・・孟夏は四月・・仲夏は五月・・季夏は六月
・・・・孟秋は七月・・仲秋は八月・・季秋は九月
・・・・孟冬は十月・仲冬は十一月・季冬は十二月
となる。
ところで、一年に月を割り当てる目標となったのは、星座であった。
「尭典」に、
・・・・日は中、星は鳥、以て仲春を殷(ただ)し
・・・・日は永、星は火、以て仲夏を殷(ただ)し
・・・・宵は中、星は虚、以て仲秋を殷(ただ)し
・・・・日は短、星は昴、以て仲冬を正(ただ)す。
とある。日中とは日がちょうど半分の春分、日永は日がもっとも永い夏至、宵中は夜がちょうど半分の秋分、日短は日がもっとも短い冬至のことをいう。
大意を示すと、春分は鳥(海蛇座α、アルファド)が昏(日の暮れ方)に南中する(真南に見る)時に起こり、春分を含む月を仲春二月と定める。夏至は火(蠍座α、アンターレス)が昏に南中する時に起こり、夏至を含む月を仲夏五月とする。秋分は虚(水瓶座β)が昏に南中する時で、秋分を含む月を仲秋八月とする。冬至は昴(牡牛座のすばる、プレアデス)が昏に南中する時で、冬至を含む月を仲冬十一月とする。すなわち、鳥、火、虚、昴という星によって季節を知り、それを基準として十二か月を定めたのである。」

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2004.07.23

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-11

第2章「暦と数の知識」の「夏正・殷正・周正」において、著者永田久は次のように述べる。
「中国で最古の文明をもつ国家といわれる夏の時代には、「尭典」の基準どおりに十二か月が命名された(ただし、参<オリオン座 α>が夕方に東中する時を十一月・子月と定めた)。これを<夏正>という。
 夏正では、正月は寅月となり、仲春二月に春分が来るので、一年の始まりは春からという「立春正月思想」がここで成立したのである。また、朔(太陽と月と地球がこの順に一直線になることで、月はまったく見えない新月の時)は夜の明け方平旦(午前3時〜5時)と定めた。
 次の殷の時代(前1500〜前1027頃)には、「尭典」に則して、辰星(大火・アンターレス)の南中を4月と定めた。そのため正月は丑月となった。これを<殷正>という。
 殷正では、丑月正月となり、さらに朔を雞明(午前1時〜3時)とした。
 さらに次の周の時代(前1027〜前256)になると、北斗七星によって季節を定める方法が行われ、北斗七星の柄が夕方に北を指す時を正月・子月と定めたのである。これを<周正>という。
 周正によると、正月は子月となり、さらに十二支に方向と時刻がつけられ、十二支はより広く人びとの生活の中に浸透していくようになった。そして周正では朔を夜半に定めた。
 夏正、殷正、周正を<三正>というが、十二支と十二か月の対応を示すと次の表のようになる。
 十二支と十二か月の対応表(周正・殷正・夏正)
 ・・周正・・・・殷正・・・・夏正・・・・十二支
 ・・正月・・・十二月・・・十一月・・・・・子・
 ・・二月・・・・正月・・・十二月・・・・・丑・
 ・・三月・・・・二月・・・・正月・・・・・寅・
 ・・四月・・・・三月・・・・二月・・・・・卯・
 ・・五月・・・・四月・・・・三月・・・・・辰・
 ・・六月・・・・五月・・・・四月・・・・・巳・
 ・・七月・・・・六月・・・・五月・・・・・午・
 ・・八月・・・・七月・・・・六月・・・・・未・
 ・・九月・・・・八月・・・・七月・・・・・申・
 ・・十月・・・・九月・・・・八月・・・・・酉・
 ・十一月・・・・十月・・・・九月・・・・・戌・
 ・十二月・・・十一月・・・・十月・・・・・亥・ 」
続いて著者永田久は述べる。
「私たちは、「立春正月思想」を暦の原理と考えているが、それは「尭典」に由来するものである。しかしすべてが春から始まると考えるのは、生命が芽生え、活動を開始する季節としてすべての動植物にとって自然なものといえよう。一年の初めは正月を春の始めとする夏正の命名が、後世に引き継がれるようになったのは当然のことである。
 中国最初の整備された暦、前漢の<太初歴>では夏正が採用され、それがそのまま<元嘉歴>を通して7世紀に日本に持ち込まれたので、自然歴のほかに正確な暦をもたなかった日本人の中に夏正の立春正月思想が植えつけられたと考えられるのである。」

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2004.07.22

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-10

第1章「十干と十二支の知識」の「十二支と十二次」において、著者永田久は次のように述べる。
「歳星のプラス回転運動による歳星紀年法は、それに対応するマイナス回転の太歳による太歳紀年法に移り、十二次は十二辰(十二支)と次のように対応することになった。
・大歳紀年法・・・歳星紀年法
・・十二辰・・・・・十二次
・(十二支)
・・・寅・・・・・・星紀・・・・せいき
・・・卯・・・・・・玄枵・・・・げんきょう
・・・辰・・・・・・娵訾・・・・じゅし
・・・巳・・・・・・降婁・・・・こうろう
・・・午・・・・・・大梁・・・・たいりょう
・・・未・・・・・・実沈・・・・じっちん
・・・申・・・・・・鶉首・・・・じゅんしゅ
・・・酉・・・・・・鶉火・・・・じょんか
・・・戌・・・・・・鶉尾・・・・じょんび
・・・亥・・・・・・寿星・・・・じゅせい
・・・子・・・・・・大火・・・・たいか
・・・丑・・・・・・析木・・・・せきぼく
こうして十二次は十二支と対応して、一年ごとに子、丑、寅・・・と名づけられるようになったのである。」
続けて著者永田久は述べる。
「年を十二支で呼ぶようになった暦は、「後漢書」によると、黄帝暦は辛卯、顓頊歴は乙卯、夏歴は丙寅、殷歴は甲寅、周歴は丁巳、魯歴は庚子を暦年にしたとある。前漢・武帝の紀元前104年「太初元年」に、それまで秦の国で用いていた顓頊歴を改めて、鄧平が<太初歴>を作った。干支による紀年法を制定して、紀元前104年を「丁丑」と定めた。この年干支は、のちに宋の時代、445年可承天の作った<元嘉歴>に引き継がれた。この<元嘉歴>が欽明天皇15年(554)に日本にもたらされ、推古天皇12年(604)に日本で初めて暦日を用いるようになった、その暦として採用されたのである。<元嘉歴>によれば、604年は「甲子」の年である。以来、千三百年もの長い間日本では暦が変わっても年干支はそのまま引き継がれて現在に至っているのである。」

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2004.07.21

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-09

第1章「十干と十二支の知識」の「<十二支>と<十二獣>」において、著者永田久は次のように述べる。
「この十二支を抽象的な文字として暦月に配当したのでは、古代の民衆にとって分かりにくいという理由もあったのであろう。十二支に<十二獣>を割り当てて身近なものとして理解させようとする試みがあった。それは中国の戦国時代(紀元前403〜前222)ともいわれているが、後漢の王充(27〜100)によって「論衡」の中に引用されたのが最初である。」
ここで著者永田久は十二支に配当された十二獣について、そのひとつひとつを述べ、更に神話を引いて話を進め、各国の様々な十二支(十二獣)にも触れている。
「紀年法を理解する」において、著者永田久は述べる。
「十干は日を数える数詞、十二支は月を数える数詞であることは述べたが、具体的な対応の仕方はのちほど述べるとして、まず「紀年法」について説明しよう。「年」という文字は、「禾」と「人」との会意文字で、農耕民族にとっては、作物が実って人に収穫されるまでの期間を表している。つまり、作物の生産期間を表すわけである。遊牧民族にとっては、草が芽を出し、枯れる周期であり、漁労民族にとっては、同じ魚が姿を現すときの流れのサイクルといえよう。現代的ないい方をするならば季節の移り変わりに周期、春夏秋冬ということになる。」
更に続けて著者永田久は述べる。
「この「年」を古代中国の人たちはどう捉えたかというと、季節の移り変わり、すなわち太陽の運動としてではなく、木星の運動を基準にして年を定めたのである。古くは、木星を歳星といった。
「歳」は戉(えつ・まさかり)と(とき)の歩みとの会意文字で、刃物で作物の穂を刈り取るまでの(とき)の流れを表す、つまりは「年」と同じ意味をもっている。歳星とは、年を測る星、年の基準になる星ということである。歳星は、天空を十二年でひと廻りする(現在では、木星の公転周期は11、862年)と観測されていたので、天空をほぼ赤道に沿って十二等分し、歳星の位置する区分を<十二次>といった。つまり、一次とは歳星が一年間で歩みを続ける天空の一区間のことである。古代中国に始まった子の一年の捉え方を「歳星紀年法」という。」
更に続けて著者永田久は述べる。
「ところが、漢民族は歳星の回転を単なる天体の運動として考えず、歳星の精なる「太歳」の力によるものとして捉え、年を測る基準は太歳へと移っていった。歳星を抽象化し、歳星から脱化した天神を太歳としたのである。太歳は、歳星と同じ速さで、しかし歳星とは反対方向に天空を巡ると考えた。すると、太歳の周期は十二年となり、歳星が一年間に動く一次は、位置こそ違え、ちょうど太歳の一年間に動く天空の一区分と対応することになる。この太歳の位置するひと廻り十二区分を<十二辰>と名づけた。すでに説明したように十二辰は後漢(25〜220)の頃に<十二支>といわれるようになったが、この十二辰を年の名称として用いることにしたのである。これを「太歳紀年法」という。歳星が星紀にある時、太歳が寅に在位することを基準として、年に命名するようになったのは、「論衡」によると紀元前三六五年のこととされている。」

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2004.07.20

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-08

第1章「十干と十二支の知識」の「<十二支>の原義」において、著者永田久は次のように述べる。
「十二支は、暦月の名称として考えられた順序数詞である。中国では、まん丸い満月から次の満月までの月の形の変化する三十日を、(とき)を測る単位として暦月と名付けた。この暦月を作る月の運動を十二回繰り返すと、前と同じ季節がやってくる。自然という、神によって与えられた中で営みを続ける草木や動物達の動きで(とき)を知るという、いわゆる自然歴で一年を捉え、その一年が周期的な盈ち虧けの運動を十二回繰り返すため、一年を十二に区分して、そこに対応させて考案したのが十二支である。「支」が区分を意味することはすでに述べた通りである。ところで、十二支の文字は、元来月を数えるために創られたものではなく、それぞれが独自の意味を持って造語されたのであり、その原義の解釈もいろいろな見解が表明されている。しかし、十二支が月の名称として使われたことを思えば、十干と同様に月を読むという、暦に関係している以上、農耕生活からにじみ出たものとして、私は次のような原義を採用した。」
著者永田久は十二支<子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥>の一つ一つに原義をのべた上でいう。
「すなわち、<十二支>というのは、草木が芽生え、生長して成熟し、収穫されてのち、再び地中に内蔵される一連のサイクルとして制定されたと解釈するのが、農耕生活の反映としてもっとも自然な考え方であると思われる。」

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2004.07.19

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-07

第1章「十干と十二支の知識」の「その原義と神話」において、著者永田久は次のように述べる。
「十干の文字は、もともと十干として日を数えるために作られたものではなく、それぞれがいろいろな意味を持って造語されたのであり、甲骨文字の解釈も多種多様であるが、十干が日を読む(数える)という暦に関係している以上、私は農耕生活に関連があったものと考えて、次のような原義を採用した。」
著者永田久は十干の一字一字の解釈をした上で次のように述べる。
「すなわち、十干というのは、草木が厚い殻を被った種子からしだいに生長して、葉が茂って大きく育ちやがて次の世代へ種子を残して枯れてゆくかわりに、その種子がはっきり分かるほどに育っていく過程を表しているといえるであろう。この一連の草木のライフサイクルが、農耕を主体とする漢民族の数詞の順序として取り入れられたと解釈するのが自然だからである。」
続けて次の「十干と陰陽五行説」において、著者永田久は述べる。
「十干の神話や解釈はさておき、十干という、日を数えるにすぎない数詞に、<陰陽五行説>を当てはめたのが中国の戦国時代の学者呂不韋(?〜前235)で、「呂氏春秋」の中に次のように記されている。
十干・・甲ー乙・丙ー丁・戊ー己・庚ー辛・壬ー癸
五行・・・木・・・火・・・土・・・金・・・水 
五行は、「もく・か・ど・ごん・すい」であるが、ここでは訓で読んで、「き、ひ、つち、かね、みず」とする。更に、同じ五行に属する十干を陰陽の対立として次のように陰陽を配当した。
十干  甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
陰陽  陽 陰 陽 陰 陽 陰 陽 陰 陽 陰
この陽と陰とを、兄と弟に見立てて、陽を「兄(え)」、陰を「弟(と)」として五行の木・火・土・金・水を次のように訓読みしたのである。
十干・・甲・・き の え・・ね・・・子・・木の兄・・えと歴
・・・・乙・・き の と・・うし・・丑・・木の弟
・・・・丙・・ひ の え・・とら・・寅・・火の兄
・・・・丁・・ひ の と・・う・・・卯・・火の弟
・・・・戊・・つちの え・・たつ・・辰・・土の兄
・・・・己・・つちの と・・み・・・巳・・土の弟
・・・・庚・・か の え・・うま・・午・・金の兄
・・・・辛・・か の と・・ひつじ・未・・金の弟
・・・・壬・・みずの え・・さる・・申・・水の兄
・・・・癸・・みずの と・・とり・・酉・・水の弟
いま述べたように「えと」という言葉は、「兄弟(えと)」に由来している。つまりは陰陽のことであり、あるいは陰と陽とに分類した十干の総称といってもよい。したがって十二支とは何の関係もない。ところが<干支>と書いて「えと」と読むには、それなりの理由があるはずである。」
続けて著者永田久は述べる。
「暦を見ると一日ごとに干支が書かれてあり、横に読むと、「えと、えと、えと・・・・・」と続いている。暦を見ることは、年月日の<干支>を見ること、つまり横に並んでいる「えと」を見ることになり、<干支>を「えと」と読むようになったのであろう。」
注:上図は横書きに合成してある。「えと・・・」は縦に読む。

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2004.07.18

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-06

第1章「十干と十二支の知識」の「<十干>=数える基本」において、著者永田久は次のように述べる。
「まず<十干>について述べよう。十干は、日を数える数詞として使われていた。「数える」余言うことは、ものの集まりを一つ一つの数に対応させることであり、この対応こそ最も基本的な「数の原理」なのである。物と数とのもっとも身近な対応は、古代人ならずともコンピュータの発達した現代の私たちでさえ、指折り数えることであろう。そして、両手の指の数が十本あるために、十を一つの単位として一つにまとめてグループをつくる。こうして日を数える単位を十日として、その一日一日に名付けた数詞が十干だといえるだろう。古代の中国でも十日を一単位としたことは、「旬」という文字が証明している。「旬」とは、日をひと巡りさせたさまを示す会意文字で、十日の意味である。上旬は、一か月の始めの十日間であり、中旬、下旬なども同じように十日間の意味である。」
続けて著者永田久は述べる。
「「旬」という文字に「シュン」といういい方があり、果物や野菜、魚などのもっとも味の良い食べごろの時期をいうのはなぜだろう。これは和製用語である月の一日、十一日、二十一日(ただし十六日も含む)の十日ごとに、天皇が臣下から政務を聴く儀式を「旬儀」といった。その折には季節に合ったものを賜るのが例となっていた。旬儀は始めは毎月行われていたが、のちに四月一日と十月一日の二日だけとなり、四月一日を「孟夏の旬」といい、夏にふさわしい扇を、十月一日は「孟冬の旬」といい、これから味ののる氷魚(鮎の稚魚)を賜ることを例とした。ここから転じて季節の食物の出盛りの時期、もっとも味のよい時を「旬」というようになったのである。」

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2004.07.17

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-05

このシリーズは最初に、いつも気なっていた「暦」と「甲子」から第6章の「暦と元号」を選んで読んできたが、改めてこの本の最初から目を通してみたいと思う。著者永田久はこの本の冒頭で「暦への問いかけ、そして暦の歩みを知ることは、人類の知恵の歴史との感動的な出会いとなるであろう。」といっている。
第1章「十干と十二支の知識」の「<干支(えと)>とはどんな意味?」において、著者永田久は次のように述べる。
「「干」という文字は、先が二股になった棒の象形文字で、的をついたり、身を守るための武器を意味していた。干戈は、盾と矛から転じて戦争の意味となり、干渉は、武器を持って押しかけて関わりをもつことである。のちに、武器としてもちいた棒を並べて、それを数に対応させるようになって、ものを数える言葉として使われるようになった。若干とは、かくの如き数、つまりいくらかの数であり、如干は、文字通り一に始まって十に終わる何らかの数を意味する言葉である。「干」は一個、二個と数えるときの「個」と同じ意味になったのである。」
私は読みながら思った。古代中国では、戦争が人間にもたらす影響というものの大きさは、現在以上に強烈であったのだ。ものを数える始めは「員数合わせ」で「干」を使い、ここには説明されていないが、いつのまにか抽象化されて「個」の誕生となっていったのであろう。漢字は象形文字であるから文字の中に「歴史」が凝縮されているので素晴らしい。
更に著者永田久は述べる。
「一方、「支」は、一本の枝を手に持つさまを示す会意文字で、支流、支店などのように一つの<もと>から枝分かれした「区分」を表し、また支柱、支持などのように下から支える意味を持っている。ところで、干と支をいっしょにした<干支>とは、元来「枝と幹」の意味であったのが、のちに十干と十二支が制定されて、その組み合わせを<干支>というようになった」
私は読みながら思った。「支」は木の枝の象形から「区分」の意味が抽出されるようになり、十干である10個と十二支である12区分が制定されたのち、再び「個と区分」を表す文字として組み合わされたというのは、分かりやすくて素晴らしい。
更に著者永田久は述べる。
「<十干>も<十二支>も、そもそもが日や月を数えるのに使われた数詞で、伝説的には、中国最古の皇帝といわれる黄帝が、部下の大撓に命じて作らせたといわれている。確かなところでは、すでに殷の時代に使われていたと考えてよいだろうが、始めは<十日十二辰>といわれていたのが、のちに<十母十二子>という結びつきの強い対語となり、後漢(25〜220)の頃から現在の<十干十二支>に定着したといわれている。
さて、十干とは、
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
十二支は、
子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥
をいう。」

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2004.07.16

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-04

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第6章「暦と元号」の「今日の元号」において、著者永田久は次のように述べる。
「天皇を中心として近代国家への歩みを続けた明治・大正時代の帝国主義日本は、昭和二十年(1945)八月十五日を境として民主国家へと変わった。昭和二十二年には旧皇室典範と皇室令は廃止となったが、年号は法律的な根拠がなくとも、事実たる習慣としてすでに国民に定着しているので存続すべきだ、という見解を政府は示していた。民間の中には元号を法制化することは、主権在民の原則に反し、民主主義を破壊する一歩となるとして反対する者もあった。一方、元禄時代、明治維新などのように歴史的事項を年号で表示する言葉として定着し、日本文化の独自性が示されていると賛成する者もあった。」
続けて著者永田久は述べる。
「年号は象徴天皇にむしろふさわしいという意見のもとに、昭和五十四年(1979)六月十二日「元号法」が成立したのである。
元号法(法律第四十三号)
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
この「元号法」によって、過去の天皇制定による勅定元号から内閣の名において制定する政令元号へと移行したのである。日本の元号は、独立国家としての一つの象徴として、象徴天皇にふさわしく、1300年の歴史をもつ文化遺産といえよう。」

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2004.07.15

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-03

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第6章「暦と元号」の「元号の始まり」において、著者永田久は次のように述べる。
「甲子改元、辛酉改元について述べてきたが、ここで「元号」について考えてみよう。古代中国では、天子には「観象授時」という特権があり、元を立て正朔(暦法)を定めて人民に時を授ける義務があった。天子が治世の始めとして「元号」を建て、それを年の称号としたのが「年号」である。つまり、元年は君主治世の始めの年ということである。」
私はどこかで、「観象授時」と、暦を定めて人民に授ける義務がある、ということを聞いていたような気がする。
続けて著者永田久は述べる。
「中国・漢の武帝が、紀元前一四〇年を「建元」元年として元号を定めたのが始まりである。しかし、紀元前一一三年(元鼎四年)をその始めとする説もある。日本では孝徳天皇の即位元年六四五年を「大化」元年としたのが公式年号の始めである。」
「そして大化二年より朝賀の儀が行われて、年の初めに挨拶を交わすしきたりが生まれたが、それが現在の「年賀状」として長い歴史を背負って伝えられているのである。」
ウエブで「年賀状 歴史」を検索してみると、年賀状が一般に広まったのは、江戸時代に飛脚制度の発達で年賀状を交換していたのに始まり、明治6年の郵便はがきの発行がきっかけだそうである。
更に続けて著者永田久は述べる。
「大化に始まった年号は、その後改元が行われ、天皇125代の現在までに247年号が施行されている。ちなみに中国では正統国家のみを扱っても皇帝198代、年号は456に及んでいる。」

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2004.07.14

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-02

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第6章「暦と元号」の「辛酉革命」において、著者永田久は次のように述べる。
「讖緯説によるもう一つの改元は、「辛酉改元」である。讖緯説によると、「辛酉」は五行の金気が重なるゆえに革命の年であるという。さらに、六十年を「一元」として、「二元」(120年)、「四元」(240年)毎に大変革があり、二十一元を「一蔀」として一蔀(1260年)及び一蔀一元(1320年)には一大変革が起こると述べられている。」
続けて著者永田久は述べる。
「この、讖緯説によって王朝革命が辛酉の年に起こるという理論が、平安時代、文章博士・三善清行によって提唱され、醍醐天皇の昌泰四年(901)辛酉の年を延喜元年と改元したのである。」
延喜といえば私は「延喜式」を思いだした。秩父神社も延喜式の中の神名帳に記載されている「延喜式内社」である。
更に続けて著者永田久は述べる。
「この辛酉改元は、醍醐天皇の時代に始まり、現在まで十九回の辛酉年の中で十六回行われている。」
戦後の辛酉の年を調べて見ると1981(昭和56)年が辛酉の年であり、つづいて1984(昭和59)年が甲子の年である。 幕末の混乱期である1861(文久元)年(辛酉)〜1864(元治元)年(甲子) から数えると三元目にあたる。
更に続けて著者永田久は述べる。
「この辛酉革命理論をよりどころとして明治時代に日本国は神武天皇の即位をもって建国とするという論理の上になり立ち、その根拠を日本書紀の「辛酉の年春正月庚辰朔、天皇橿原宮に即位し、是歳を天皇元年となす」という記述に求めている。推古天皇九年(601)は辛酉年で、大変革の起こる 一蔀(1260年)さかのぼると、紀元前660年となる。こうして聖徳太子がこの年を 神武紀元 と定めたというのである。また、天智天皇即位が661年であり、一蔀一元(1320年)さかのぼると紀元前660年になることも符合する。この神武紀元説が歴史学者那珂通世によって提唱され、明治五年十一月十五日「太政官布告三四二号」によって制定されたのである。「今般太陽暦御頒行、神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候」
略・・・・・
こうして制定された神武紀元は法律的にはまだ取り消された形跡がない。とするとまだ生きているわけである。済し崩しのままに放っておいてよいものだろうか。」

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2004.07.13

「暦の知恵・占いの神秘」を読む-01

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家を建て替えた時にほとんどの本を売ってしまったが、後で読もうとわずかに残した本がある。その中の1冊に「暦の知恵・占いの神秘」永田 久・日本放送出版協会がある。最近、暦や占いについて話を聞く機会があって興味が湧いてきたこともあり、書棚を探してみたのである。

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2004.07.12

複式簿記の思いで-18 「Mac 会計」に心からの感謝を贈る

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複式簿記の黙示録」の第6章の中の「日本発! 調和のとれた世界」の「87・日光東照宮と秩父神社には、道教思想が色濃く投影されている」で著者岩辺晃三は、次のように述べる。
「天海・光秀同一説の裏付けを、数字や紋章を象徴する幾何学的模様でも得ることができる。ここではもはや、日光東照宮よりも先に建立されて日光東照宮彫刻類のモデルとなった秩父神社拝殿の彫刻について多くを語る紙幅はない。しかし、結論だけを述べるならば、明智光秀のシンボルである桔梗紋(五角形)をつけた人物と、道教の道士の姿で六角形をシンボライズした紋章をつけた人物とを秩父神社の彫刻のなかに見いだすことができるのである。」続けて「筆者は、この秩父神社の彫刻を、天海・光秀同一説を裏付ける具体的な証拠として提出したい。秩父神社拝殿の正面には、鶴と亀の迫力ある彫刻を目にすることができるのである。このほか、秩父神社の彫刻には、名工左甚五郎の作とされる「子育ての虎」や「つなぎの龍」の彫刻があったり、「北辰のフクロウ」の彫刻がある。秩父神社の彫刻群で注目すべきことは、道教の理想の人物とされる仙人たちの彫刻が多く存在していることである。」
道教、儒教、仏教を代表する人物が拝殿正面に彫刻されていることから、このことは明らかとして、続けて著者岩辺光三は述べる。
「秩父神社は、1592(天正20)年の棟札が示すように江戸時代には「妙見宮」と呼ばれていた。江戸時代には妙見祭りと呼ばれ、霜月11月1日から3日間にわたって行われた例大祭は、こんにち「秩父夜祭り」として12月3日を中心に開催されている。」
更に続けて著者岩辺光三は述べる。
「筆者は会計史研究の過程において、イタリア式簿記の日本伝播を立証する具体的証拠がないことから、その理由として天海・光秀同一説を挙げて展開してきたものである。天海・光秀同一説は、まさに光秀が死んだあとに天海としてよみがえったという「再生のドラマ」を意味するものである。秩父神社の祭りのなかには、古代からその再生ドラマは存在していたのかもしれないが、その祭りに乗じて光秀すなわち天海がみずから再生のドラマを自作自演して、さらに秩父神社の彫刻群のなかにその形を提示しているものと筆者には受けとめられるのである。また、天海が118歳という高齢になるまで強烈な彼の生涯をまっとうしえたのも、不老不死を理想とする道教の知恵を実践した結果にほかならないとも考えられるわけである。」
私は一昨年になるが秩父三十四観音の午年ご開帳の折りに、第13番.慈眼寺、第4番.金昌寺、第10番.大慈寺、第16番.西光寺、第22番.童子寺、第23番.音楽寺に巡拝したことがある。
秩父神社の前を通ることはあっても、まだ参拝したことはないが、そのうちにぜひ参拝して拝殿の彫刻をみて見たいと思う。

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2004.07.11

ドリームスペルに出会い遊び方を学ぶ-19 4つの世界の次元幾何学的交差

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小野和哉氏作品 神聖幾何学的絵画

昨日、10日の昼前に家を出て吉祥寺駅から JR 線で新宿経由原宿に向かった。夕方から雨になるという予報だったので傘をリュックに入れて、晴れている原宿駅に降りた。時間が少々あったので、明治神宮の鳥居をくぐって参道を歩き、すぐ左の横道に入って10分弱であったが、森然とした雰囲気に浸ってみた。
*** 記録写真はこちらにあります。 *******

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2004.07.10

複式簿記の思いで-17 マックワードで総会資料を作る

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複式簿記の黙示録」の第3章の中の「戦国日本、天下統一の陰にひそむ知将の意思」の「38・秩父札所の番付変更と、日本観音百霊場づくりに秘められた天海の意図」で著者岩辺晃三は、次のように述べる。
「ここで天海がキリシタン禁制の変わりに誘導しようとした観音信仰についてみてみると、日本では西国三十三カ所の観音霊場への巡礼として古くから行われていたことがわかっている。その起源は奈良時代までさかのぼるといわれ、伝説によれば718(養老2)年に大和長谷寺の徳道上人によってはじめられたという。」
続けて著者岩辺晃三次のように述べる。
「鎌倉時代になると、関東では鎌倉の杉本寺ではじまり安房の那古寺で結願する坂東三十三カ所の観音霊場が成立する。更に十五、十六世紀になると、各地方で観音霊場が形成され、秩父地方では1488(長享2)年にすでに巡礼がはじまっていたことを示す記録が残されている。その記録とは、秩父札所第三十二番の法性寺が所蔵する「長享二年秩父観音霊場」、略して「長享番付」とよばれる古文書のことで、内容は現在の秩父観音霊場とは巡礼順序・札所番号もかなり異なったものとなっている。とくに札所が現在は一番の四万部寺からはじめって水潜寺までの三十四カ所になっているのに対し、「長享番付」では三十三カ所である。観音霊場を三十三カ所の構成とするのは、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」の観世音菩薩三十三身十九説法の説に拠るもので、三十三の枠を超えて三十四カ所とした背景にはよほどの事情があったと考えられる。その事情とは、江戸初期、西国、坂東の二つの三十三札所に加えて秩父の札所を三十四カ所にして、日本百観音霊場をつくったことである。」
更に続けて、著者岩辺晃三次のように述べる。
「しかし、この秩父札所の変更が、江戸初期のいつ、いかにしてそうなったかについて説明する史料は存在していない。変更にさいしては、相当強大な権力を背景としなければ成立しなかったはずであり、筆者はそこに当時の宗教界の頂点にいた天海の関与があったと推測してさしつかえないと思っている。」
そして著者岩辺晃三続けて述べる。
「また、坂東札所の第九番は、外秩父にある天台宗の「都幾山慈光寺」である。「都幾山」は鎌倉時代は「遠一山」といわれていた。それが、いつのころからか「都幾山」に改められたもので、「都幾」は明智光秀ゆかりの「土岐氏」を連想させ、ここにも天海・光秀同一説を暗示するものがある。」
著者岩辺光三は秩父観音霊場について深い洞察を与えているが、私が手にしている「秩父観音巡礼」平幡良雄・満願寺教化部刊に拠れば「三十番・法雲寺にある天文五年(1536)の納札には、百観音巡礼と刻銘され、そのころ西国、坂東、秩父を合わせて巡拝することがおこなわれていたことを知るのである。」とあるので、まだまだ探求の手をゆるめるわけにはいかないと思う。

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2004.07.09

複式簿記の思いで-16 ページメーカーで小冊子を作る

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「複式簿記の黙示録」の第3章の中の「戦国日本、天下統一の陰にひそむ知将の意思」の「36・謎に包まれた明智光秀と南光坊天海の前半生」で著者岩辺晃三は、次のように述べる。
「江戸初期の宗教界、そして幕閣に絶大な権威を誇った南光坊天海だが、前にもふれたように出生・出自をふくめてその生涯、特に前半生には謎の部分が多い。その謎に関連して、南光坊天海が実は明智光秀であるという驚くべき事実が存在することにぶつかった。これまでの通説では、明知光秀は山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、山科の小栗栖の竹薮で土民の手にかかり不覚の最期を遂げたことになっている。しかし、第三者が襲撃現場を目撃したようすもなく、光秀の首といわれたものが差しだされたほかは、なんの証拠もなかった。これを天海・光秀同一と考えると、光秀は吉野に逃げ、のちに信濃の善光寺に落ち、最期に秩父にたどりついたと推測されることになる。そして光秀が後日、天海を名乗り、家康に見いだされて幕府の黒幕的存在になったと考えるのである。その論拠の一つになるのが、日光に明智平という地名があることである。明智平は男体山、中禅寺湖、華厳の滝などが一望できる景勝の地である。」
著者岩辺晃三は、「最初まさかと思ったが、その後いろいろと調べていくうちに、じょじょにそれが真実であることがわかった。」として謎を追っていっている。続けて「37・江戸崎と川越に存在する天海と光秀を結ぶ糸」において、次のように述べる。
「光秀と天海が同一とするならば、光秀の生長から起算して、天海は数え年118歳で没したことになる。一方、天海もまた足跡が明確になるのは、1591(天正19)年、葦名盛重に迎えられて常陸江戸崎不動院に入ってからである。その後は、東叡山寛永寺の造営まで武蔵川越仙波の喜多院を中心に活動した。前半生がともに不明な点が多いことが天海・光秀同一説の背景にあることは見逃せない。しかし、前半生が不明という共通点だけで天海・光秀同一説を成立させるにはかなり無理がある。そこで筆者は、実際に天海が身を寄せた江戸崎不動院と川越喜多院を訪ねてみた。」
著者岩辺晃三は、謎を解くために自ら調査に乗り出し、その結果「江戸崎と川越にはいずれも天海と光秀を結ぶ糸が存在しているのである。」とし、ついでに「もし天海が光秀だったとするならば、天海は光秀およびその近親者の名前に相当のこだわりをもっていたはずである。」と、徳川二代から五代までの名前の中の「秀、光、綱」の文字を挙げている。
私は、家康が宗教界を支配することでお家の安泰が計れるとして、後事を天海にたくしたとすれば、その炯眼恐るべきものがあったと思う。やがて宗教界は、徳川家に奉仕する策に出てくることになるというが、そこまで天海が先を見通していたとすると、天海もまた並外れた宗教界の巨人であったと思う。

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2004.07.08

複式簿記の思いで-15 団体の会計業務は年に一度の経験

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複式簿記の黙示録」の第3章の中の「戦国日本、天下統一の陰にひそむ知将の意思」の「35・日光東照宮の縄張りを行った天海と高虎」で著者岩辺晃三は、次のように述べる。
「天海が歴史の表舞台に登場するのは、家康が亡くなってからである。家康が駿府で1616(元和2)年に亡くなり、久能山に吉田神道(唯一神道)にのっとって仮埋葬された。しかし、家康の神格化にともなう追諡神号と祀り方をめぐって、金地院崇伝とのあいだで論争が起こり。崇伝が家康の霊位を吉田神道によって「大明神」として勧請することを主張したのに対し、天海は天台の山王一実神道で「権現」として祀ることを主張した。この論争は結局天海に軍配が上がり、家康は「東照大権現」として日光山に祀られることになった。家康の一周忌に霊柩を日光に移し、日光東照宮が建立されることになったのである。日光東照宮の築造は、天海が先導し、総奉行本多正純、造営奉行は藤堂高虎がつとめた。天海と高虎が相談して10月に縄張りを行い、翌1617(元和3)年4月、日光東照宮が完成した。」
続けて著者岩辺晃三は述べる。
「東照宮縁起は、「元和2(1616)年2月4日、見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に呼ばれ、神君より三人一処に末永く魂静まるところを造って欲しいと遺言された」とある。」
日光東照宮と家康と天海の関係について、私は初めて知った。著者岩辺晃三の述べるところによれば、「東照大権現=家康(本地薬師如来=山王二宮)、山王権現=天海(本地釈迦如来=山王大宮)、摩多羅神=藤堂高虎(本地阿弥陀如来=山王三宮)があてられていた」というが、この現実の人間が神格化されるのは例があるとしても、本地垂迹説によって如来となるということは、にわかに私には理解できないものがある。
天海は生前において、山王権現=天海(本地釈迦如来=山王大宮)となっていたということになるが、このようなことが当時ほかに例があるのであろうか。その後明治の初期に、家康以外の天海と高虎については源頼朝と豊臣秀吉に代わっているというところも、単なる誤りなのか、それ以外の理由があるのか、まだ追求はされていないらしい。だが、このようなことが天海僧正の意思であったのであろうか、私はそのことを探求する旅に更に出てみたい誘惑に駆られる。

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2004.07.07

複式簿記の思いで-14 ニフティパソコン通信を始める

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「複式簿記の黙示録」の第3章の中の「戦国日本、天下統一の陰にひそむ知将の意思」の「33・日本近世史の謎の中心人物、南光坊天海」で岩辺晃三は、次のように述べる。
「これまで、現存する江戸期の会計帳簿を分析しながらイタリア式簿記の日本への伝播の影響について考えてきた。」つづいていう「江戸時代初期、幕閣には黒衣の宰相ともいうべき二人の僧侶が存在した。金地院崇伝と南光坊天海である。」
「34・キリシタン禁制の思想的バックボーンとなった天海の山王一実神道」で岩辺晃三は、次のように述べる。
「天海は家康の厚い信任を受け、秀忠、家光の将軍三代にわたって厚い信頼をうけることになる。1602(慶長12)年、比叡山で内部争いが起こり、すでに将軍職を譲っていた家康にその裁許が求められ、家康は天海に比叡山東塔の南光坊在住を命じ、信長の焼き打ちで荒廃していた比叡山の再興にあたらせた。南光坊天海の名は、このとき南光坊に在住したことに由来する。幕閣における天海の役割は、崇伝のように政務の表に立つものではなく、幕藩体制確立のために徹したものだった。天海が独自に唱えた山王一実神道(道教を根底にした神儒仏一致思想)がキリシタン禁制の思想的バックボーンとなったのである。」つづいていう、
「1613(慶長18)年に幕府は「関東天台宗法度」を制定し、天海に授けた。これによって、関東の天台宗は天海の支配下に属することとなり、本山延暦寺をしのぐ特権を認めた。天台宗は昔から仏教界最大の宗派であり、世俗的にも勢力が強かった。その総本山の延暦寺は朝廷の直接支配下にあり、幕府にとっても不安材料の一つとなっていた。この法度によって天台宗の勢力を二分し、さらに天台宗の中心を関東に移したのである。また同年、下野の日光山を管理していた座禅院の権別当昌尊が一山宗徒と反目し職を退き、法統途絶の危機となったため、家康はその後釜として天海を日光山座主に就かせた。」
いよいよ「複式簿記の黙示録」第3章は後半の部分、「天海・光秀同一説の背後に隠された「秘数」」に入ってきた。ここまでは天海の登場を述べている部分であるが、信長がおこなった宗教対策をふまえて家康が宗教対策に天海・光秀を起用した考えると、なおよく解ると私は思う。
さらに続けて著者岩辺晃三は述べる。
「これらの処置は、信長の比叡山焼き打ちにより衰退した比叡山に対して、関東の地で幕府の力を背景に天台宗を再興し、自分の支配下におこうと企てた天海の意図とも合致するものだった。天海は延暦寺に対抗する天台宗の大寺として、喜多院のほかに、1624(寛永元)年、江戸上野忍岡に東叡山寛永寺を起工している。山号を東叡山、寺号に当時の年号をあてたのは比叡山延暦寺を念頭においたものにほかならない。」
こうして天海は、家康の帰依を受け絶大な権勢を築いたのである。これから現れてくるであろう「秘数」とはどんなものであろうか、その謎の展開に大いに期待しよう。

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2004.07.06

複式簿記の思いで-13 イベント資料などファイルメーカーで作る

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「複式簿記の黙示録」の第2章の中の「江戸大福帳は複式簿記だった」の「21・イタリア式簿記の影響が確認できる江戸期の会計帳簿」で岩辺晃三は、次のように述べる。
「ここで、現存する江戸期の会計帳簿をみてみると、すでにふれた伊勢富山家の「足利帳」や「羽書仕入帳」のほかに、つぎに掲げるような会計帳簿がある。いずれの帳簿にも複式決算構造が認められ、イタリア式簿記の影響が脈々と生きていることを確認することができる。」
「1.京都・桂離宮「万買帳」1634(寛永11)年
...........................「大福帳」1641(寛永18)年
 ...2.大阪・鴻池家「算用帳」1670(寛文10)年
 ...3.伊勢・三井家「大元方勘定目録」1710(延宝7)年
 ...4.近江・小野家「勘定帳」1732(享保17)年
 ...5.近江・中井家「店卸記」1746(延享3)年
 ...6.出羽・本間家「万覚帳」1753(宝暦3)年
...........................「万差引帳」1753(宝暦3)年
...........................「万控帳」1762(宝暦12)年
 ...7.出羽・田部家「勘定目録」1801〜1804
................................................. (享和元〜3)年
 ...8.伯耆・近藤家「緒勘定控帳」1802(享和2)年」
続けて「複式決算構造を持つ江戸時代の帳合法」の「28・武将山中鹿之介の子を始祖とする大坂の豪商・鴻池家の「算用帳」」の中で著者岩辺晃三は、次のように述べる。
「鴻池家「算用帳」とは1670(寛文10)年からはじまる鴻池両替店本家の決算簿である。江戸期の鴻池家会計帳簿として現存するものには、このほか1815(文化12)年と1868(慶応4)年の大福帳と、分家の鴻池与三吉家の「差引元帳」がある。
鴻池家は戦国末期の武将山中鹿之介の子・新六を始祖とする大坂の豪商である。新六は、1578(天正6)年、摂津川辺郡鴻池村に居住して清酒醸造法を発明。江戸に販路を拡大して巨利を得たとされている。その後、1619(元和5)年に大坂に出て、子正成(初代善右衛門)が海運業をはじめ、西国大名の参勤交代の運輸を扱った。同時に大名貸しにより、資本を蓄積して1656(明暦2)年、金銀の売買をおこなう両替商を開き、大坂最大の両替商に成長。寛文年間(1661〜1672年)、十人両替の一人となった。」
更に続けて「32・蒲生氏の支流・儀俄氏が松江藩に伝えたイタリア式簿記の影響」の中で著者岩辺晃三は、次のように述べる。
「このようにみてくると、江戸期の会計帳簿として現存するもののほとんどにイタリア式簿記の影響が認められ、「日本固有の複式決算構造をもつ」とされてきた帳合法も、実は複式簿記のシステムだったことを指摘しておきたい。イエズス会宣教師やロルテスたちによって伝えられた知識・技術はキリシタン禁制によって消去されたようにみえるが、実学、とくに商業会計の分野では形を変えて根強く生き残ってきたというのが筆者の見方である。」
こうして、岩辺晃三は江戸期の会計帳簿を追う中から、イタリア式簿記が近代日本に与えた影響をはっきりと確認するにいたったのである。私はここまで読んできて、日本においても、商業資本主義が生まれ育っていたことに知り、そのことに大いに興味を持ったのである。

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2004.07.05

複式簿記の思いで-12 予算管理の試行について

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「複式簿記の黙示録」の第1章、の中の「宣教師たちが伝えたイタリア式簿記」の「10・辻邦生氏の小説「安土往還記」に登場する謎の万能イタリア人」で岩辺晃三は、次のように述べる。
「辻邦生氏の小説「安土往還記」には、宣教師ではないが、安土のセミナリオで講師をつとめた人物として興味深いイタリア人が登場する。  「私が安土セミナリオにおいて自然科学、数学を教えるようになったのも、ヴァリニャーノの配慮であるし、教会会計の処理を日本修道士に委託したのもかれの決断によっていた」(筑摩書房「安土往還記」217〜8ページ)」  この人物は、全編をとおして物語の語り手でありながら、最期まで名前が明らかにされていない。」
続いて「11・小説に登場する謎の人物は実在し、名をロルテス(山科勝成)といった」において岩辺晃三はいう。
「「安土往還記」に登場するイタリア人がだれであるかは謎である。だが、もし実際に存在したとすれば、1642(寛永19)年に蒲生氏郷の後孫・大野五左衛門が執筆したといわれる「御右筆日記」に記されたある人物が浮かび上がる。その名をロルテスといい、日本に帰化して蒲生氏郷の家臣となり、山科勝成を名乗った人物である。」
著者渡部晃三は、ロルテスについて「御右筆日記」の内容を紹介した後、「筆者には「御右筆日記」の記述が事実であると思えてならない。すなわち、ロルテス=山科羅久呂左衛門勝成は実在し、主君・蒲生氏郷を通じて、信長をはじめ多くの織田家臣たちに西洋の諸学を伝授したと考えるのだ。」と、謎の人物をロルテスに措定したのである。こうして、渡部晃三はこのロルテスを追う形で以後、イタリア式簿記が近世日本の商業に与えた影響を読み解いていく。

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2004.07.04

複式簿記の思いで-11 現金の取り扱いについて

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「複式簿記の黙示録」の第1章、の中の「宣教師たちが伝えたイタリア式簿記」の「7・西洋ルネッサンス文化を戦国期の日本に導入したキリスト教宣教師たち」で岩辺晃三は、次のように述べる。
「パチョーリが「スンマ」を著してから約100年後、大航海時代の潮流は極東の日本にも押し寄せた。1542・3(天文12・13)年、ポルトガル船が種子島に漂着。そして、6年後の1549(天文18)年にはイエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。宣教師をとおして西洋ルネッサンス文化と日本文化との本格的な出会いがはじまった。イエズス会は、ルターの宗教改革に対抗して、1534年にスペイン人イグナチウス・ロヨラが、ザビエル、サルメロンなど6人の仲間とともに結成したカトリックの失地回復のための団体である。」

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2004.07.03

複式簿記の思いで-10 ページメーカーで雑誌編集

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「複式簿記の黙示録」の第1章、の中の「宣教師たちが伝えたイタリア式簿記」の「3・1494年ヴェネツィアで出版された複式簿記の書「スンマ」」で岩辺晃三は、次のように述べている。
「さて、500年前の1494年にヴェネツィアで出版された複式簿記の書物とは、「算術・幾何・比及び比例総覧 Summa de Arithmetica, Geometria, Proportioni et Proportionalita」(以下、 「スンマ」とする)という数学書のことである。著者はイタリア人数学者のルカス・パチョーリで、簿記論は36章にわたって論述されている。パチョーリは、1445年ころイタリアのトスカーナ地方のボルゴ・サン・セポルクロに生まれたフランチェスコ教団の修道僧である。優れた数学者として知られ、20歳のとき、ヴェネツィアにおもむき、ペルージア大学、ナポリ、ピサ、フィレンッェ、ボローニアの諸大学で教鞭をとり、1494年ヴェネツィアにもどって「スンマ」を出版した。」
著者岩辺晃三は、この「スンマ」がそのご宣教師を通して遥か極東の日本に影響を与えた、という推理を展開しようとしている。ますます興味の湧くところである。

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2004.07.02

複式簿記の思いで-09 日常会計業務のさまざま

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「複式簿記の黙示録」の第1章、の中の「宣教師たちが伝えたイタリア式簿記」の「2・自説を追及していったら、日本歴史の意外な裏面が見えてきた」で岩辺晃三は、次のように述べている。
「ドイツの偉大な文豪ゲーテは、「複式簿記こそ、人間の精神が発見した最も素晴らしいものの一つである」と「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」のなかで複式簿記を絶賛しているが、この複式簿記が普及したのは、ルネッサンス期、商業資本主義経済の萌芽した時代からである。その後、複式簿記は、国境をこえて発展していく資本主義的経済活動をささえる経営管理上の重要なソフト技術となった。」
続けて「この技術が日本に伝えられたのは1873(明治6)年になってからである、とこれまでいわれ、それが日本の会計学会での通説であった。」と福沢諭吉、アレキサンダー・アラン・シャンドの貢献を紹介し、「筆者は、この学会の通説に異をとなえ、「イタリア式簿記の日本伝播説」を主張し、複式簿記が16世紀の後半すぎに日本に伝えられていたと考えている。」と述べている。
これから、どのような世界を展開して見せてくれるのか、興味の尽きないところである。

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2004.07.01

複式簿記の思いで-08 日常会計業務のさまざま

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7月1日は雑節の一つ「半夏生」、夏至から11日目。
写真は植物の「半夏生」、この頃に花をつけるからこの名前。
別説、花に近い葉っぱの一部が白くなり花よりも目立つので、
“半化粧”だともいわれます。

「複式簿記の黙示録」の第1章、「1・天秤を思い浮かべるとわかりやすい「複式簿記」の仕組み」は、簿記の仕組みを読み解く基本となる最低限のことを、次のように述べている。
「まず、簿記とは、帳簿記入を略した言葉である。簿記には単式簿記と複式簿記があるが、普通簿記といえば複式簿記のことである。複式簿記では、企業活動にあらわれる取引を二つの面からとらえ、ある一定の仕組みにもとづいて帳簿に記録し、計算し、整理する。このようにすると、企業の財政状態を示す「貸借対照表(バランスシート)」と経営成績を示す「損益計算書」が同時に作成されるが、その技法を複式簿記というのである。」
私はこの本を読む前までに幾つかの本を読んでいて、「複式簿記」についておおよその見当はついていたが、この段落を読んではじめて、すっかりすっきりとイメージ出来るようになったのである。著者岩辺晃三は続けていう。
「もう少しくわしくいうなら、複式簿記とは、企業が資本投下して取引を行い、取引で生じるカネ(貨幣)の流れとモノ(財・サービス)の流れを、帳簿の借方(左側)と貸方(右側)に分けて記録することによって、一定の期間に、資産、負債、資本がどのように変化し、最終的に資本がどれだけ増加(あるいは減少)したか、つまり収益と費用の差額としての利益(あるいは損失)がどれだけ生じたかを計算する技法のことである。」
さらに続けて、「複式簿記では、資産、負債、資本および収益、費用を、細かく分類された「勘定」科目ごとに、それぞれの有高を計算する。経済上、取引はギブ・アンド・テイクを基本としているから、ある取引を行えば、かならず勘定科目の借方(または貸方)が増加し、同時に別の勘定科目の貸方(または借方)が増加することになる。」と説明するのである。

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