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2004.08.03

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -10-  将軍へのおくり物競争

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「4.参勤交代で地方の名産が続々と江戸へー大名屋敷は家庭菜園」の中の「将軍へのおくり物競争」は、次のように述べられている。
「大名が国元から江戸に参府するときに、将軍家におくる献上品も、野菜の歴史を変えた一つの要因だった。」

「大名達は自国を守るため、将軍のご機嫌うかがいの献上品を必死に選んだという。よその藩がどんなものをおくったかを偵察し、どこにも負けない献上品を用意することが、江戸づめの侍の第一の仕事といわれたくらいだ。隠密まで使ったという記録もある。こんな侍たちの見栄の張り合いのおかげで、江戸には新しい品が続々と登場し、野菜文化に磨きがかかっていった。また、国元にない珍しい野菜を食べた地方武士たちは、妻や子供への土産物として持ち帰った。」
##私はここまで読んできて思う。江戸時代において献上品がどれほどの意味を持っていたか、これまで考えても見なかったので少しウエブ検索をしてみることにした。するとたちまち面白いサイトに出会うことができた。
「佐賀ときめき大学」 「ときめきゼミナール 礎講座 鍋島藩窯 」 に藩の献上品について分かり易い記事があった。私は焼き物が好きなので、少し長いが引用してみよう。
「(2)鍋島誕生の社会的背景
献上や贈答の契機
江戸時代は、超越的な中央権力である幕府と、国家権力の一部を分有ししている各藩との関係で維持された社会といえます。中央権力である幕府に対して、藩は国家権力の一部を分有してはいるが、その権力は、幕府権力と結びつかぬ限り、権力として機能することはできませんでした。そのため幕府を刺激せず好意をもってもらうことが、非常に大事なことになっていきました。
それは、寛永12年 (1635) に武家諸法度が改正され参勤交代が制度化されるようになると、大名やその家族などは、江戸に住まうことになり、将軍やその家族、重臣あるいは各大名間の付き合いが何にもまして、関心の高いことがらになり、献上や贈答は官位や地位を得る重要な手段であったこともあり、献上や贈答は大名にとっては極めて重要な政治的手法であるとともに、一方では当時の大名社会の礼儀(作法)のようなものでもありました。
そのための手段として、ことあるごとに将軍とその家族や幕閣の重臣たちに、献上や贈答が繰り返されます。また、他の藩との友好関係を保つための手段として、相互の贈答品の交流が必要であったため、大名たちは贈物の選択に腐心することになります。
当初、贈物には通常珍しく高価な嗜好品があてられました。珍しいものとしては、入手が困難なその藩の特産物があげられますが、特産品が無い場合には、てっとり早い方法として、上方の高級な手工業品や輸入品(唐物)がそれにあてられてきますが、鍋島藩では、国産初の磁器製造の技術を手にした以降は、日の本一の名産であるやきものがそれにあてられ、藩の献上は制度としてますます整備されていきます。鍋島藩でも、献上品の調達から献上・贈答先に至るまで一切を取り仕切る、進物役という役職が置かれます。」
この記事を読むと、献上・贈答が大名社会の礼儀(作法)であったこと、藩から幕府へのの献上は制度となっていたことを知った。そして現代社会も献上・贈答を礼儀(作法)としていろいろな形で引き継いでいる、ということも知った。献金もまた止むことがない。
今日はここまで。##

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