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2004.08.19

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む -26-  世界一清潔な大都市***一応シリーズを終わる***

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第1章「江戸が育てた日本の花と野菜」の「10.都市の糞尿をすべて農業に使うしくみ ー 江戸の肥桶は牛乳缶みたいに清潔」の中の「世界一清潔な大都市」は、次のように述べられている。
「明治時代に来日して大森貝塚を発見したアメリカ人・モースは、汲み取りに使う肥桶についてこう語っている。「畑に肥料を運ぶ木製のバケツは真っ白で、わが国の牛乳缶みたいに清潔である」。当時、パリやロンドン・ニューヨークなどの大都市では、下水道づくりが始まったものの、便所がないために糞尿やごみは窓から捨てられるのが一般的で、道路も川も汚れがひどかった。モースにとって江戸の清潔さは驚きだったのだ。」

「天びん棒や荷車のほか、発達した水路や川を使って肥船で運ぶこともあった。江戸川・中川・船堀川はとくに多く、砂村など江戸東部の産地とを結んでいた。これらの地域がきゅうりなどの特産地となったのも、町場の下肥のおかげだった。これだけ貴重なものだから、下肥をめぐる争いまで起きた。値段を引き上げた町場側に対抗し、江戸周辺の1016村の農民たちが団結して幕府に訴え、値下げに成功した。
糞尿のほかにかまどの灰や生ごみも徹底的に回収し、肥料として利用している。当時世界一の人口をかかえながら江戸が清潔だったのは、町場と農村の間で糞尿のリサイクルがきちんと確立していたからである。」
##ここまで読んできて私は思う。だいぶ前まで東京湾で見ることができた肥船は、何時頃からなのだろうかウエブで検索してみた。すると 「さんぽみち総合研究所-柴又コース」というページの中の「江戸の下肥と葛西船」 というのがあって、次のように書かれていて面白い。
「4.江戸の下肥と葛西船
葛西船は、江戸時代に下肥を江戸から東部の村々へ運んだ肥船のこと。農家が副業で始めたものだが、中でも葛西の農民権四郎は、江戸城本丸の汲み取りを引き受けていたことで有名だった。このため、江戸の人々は、肥船はすべて葛西から来るものと思い、肥船を葛西船と呼んだ。
農作物の肥料に下肥を使うようになった歴史は、中世まで遡ることができる。だが、下肥が売買されるようになったのは、江戸時代に入ってからである。江戸近郊の村々は江戸へ出荷する農作物をつくるために、大量の下肥を必要としていた。そこで農民たちが目をつけたのが出荷先の江戸から出る下肥。享保(1716〜36)から幕末にかけて江戸の人口は百万人以上もあり、そこから下肥の量を推計すると、年間300万石にもなった。この膨大な量の下肥を運ぶ汲み取り業者は、江戸の衛生問題を解決する役割も担っていた。
下肥の汲み取りは汲み取る側が謝礼を出し、武家屋敷には野菜、町家には金銭または野菜で支払われるのが普通だった。時代や地方によっても異なるが、大根なら150本、ナスなら150〜200本、金銭なら一分二朱前後が一人1年分の相場であったという。また、農村では「船一艘は一町株」といわれていた。これは、肥船を一艘持っていれば、田畑一町(約1ha)分の儲けがある、という意味。だが、農民たちにとって、下肥の値が年々あがることは深刻な問題だった。事実、寛政元年(1789)には、野菜の値にひびくとの理由から、江戸周辺の農村は町奉行所に下肥の値下げを要望している。町奉行所はこれを受けて値下げを指導したが、あまり効果はなかったという。
ちなみに、東京の下肥運搬業は大正時代まで続けられていた。」
##また 「シリーズ 東京のし尿処理の変遷(1) 第1期 「し尿を肥料として農業に利用」 東京下水道史探訪会1」 というページはし尿処理の歴史的変遷を知るのにいい。江戸時代については次のような記述がある。
「江戸時代のし尿の利用
農民の年貢に財政の基礎を置く江戸幕府は農作物の増産には非常な熱意を持って望んだ。低湿地の埋め立て、新村の開拓と共に、耕作指導には念入りな努力を注ぎ、また、農肥(し尿)の確保には常に触書、御定書などを絶え間なく発して微細に節約と生産増産とに注意を怠らなかった。つまり江戸幕府はし尿を江戸構造の底辺を支える重要な要因であると認識していた。
一方、幕府施政下の農民は、なんの文句も言えずに食料増産を努めるために肥料としてのし尿に求めなければならなかった。江戸期の農肥には、干鰯、油粕、わた樽(魚類の頭、はらわた、その切り屑等)などは少量であったので一般作肥のためには容易に手は届かなかった。し尿は実質的には唯一の肥料で「軽蔑すれば罰が当たる」言われるほど汚穢の観念を越えた貴重品であり、商品であった。」
##江戸が清潔であったことを知りたいとウエブ検索したところ、 「水の歴史館(給水・下水)日本編」
というページに出会ったが、なかなか面白い。また 「『江戸時代に洗練されたリサイクルシステム』」 も昔懐かしい屑屋などを思いだすのにいい。また 「江戸散策」のなかの「第11回 湯屋の二階は、コミュニケーションの湯」 というのも江戸の清潔さの一端を担っていていい。
ここでひとまず、このシリーズをお休みにする。
またの機会に再開をする予定である。

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コメント

> 大竹道茂さん
Promenade Musashino をご覧いただき、こちらこそありがとうございました。
「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む」26回、とても楽しく書かせていただきました。
また、「江戸・東京 暮らしを支えた動物たち」と「江戸・東京 農業名所めぐり」などのお話しをいただき、ありがとうございます。江戸・東京農業には興味をもっておりますので、読ませていただきたいと思っています。
東京農業のますますのご発展と大竹道茂さんのご活躍を祈念いたします。

投稿: kojima | 2004.10.19 21:27

「江戸・東京ゆかりの野菜と花」を読む」25回もの連載、ありがとうございました。申し遅れましたが、私、この本の、執筆・編集を担当いたしました大竹と申しますが、このような形で、広く東京農業の歴史をご紹介いただきましてありがとうございました。この本は、私どもが出版した江戸・東京シリーズの第一作で、その後、「江戸・東京 暮らしを支えた動物たち」と「江戸・東京 農業名所めぐり」を出版いたしました。特に、「江戸・東京 農業名所めぐり」は、第一作の反響が大きかったことから、農業協同組合法施行50周年を記念して、江戸から今日まで、東京にあった産地を、多くの方々に尋ねていただこうと、50周年を記念して、50本の屋外説明板を各産地に設置いたしましたが、その案内書ともいうべきもので、説明板の設置場所は、かつて、農家が豊作を祈願し、収穫を感謝した産地の神社の協力をいただき、神社にはスタンプもおかせていただき、スタンプラリーも出来るようになっています。もし、興味がございましたら、ぜひ贈呈させていただきたいと思っております。そして、多くの方々が設置場所に行って、農業や食の問題などに関心を寄せていただけるような、機会を作っていただければありがたいと思っております。益々のご活躍をお祈り申し上げます。住所をご連絡いただければ幸いです。

投稿: 大竹道茂 | 2004.10.19 13:05

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