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2004.11.09

陳舜臣の「上海雑談」を読む-05

むかし図書館でだったと思うが「耶律楚材」という文字を目にして手に取った記憶がある。やはり「やりつそざい」と読むんだと知っただけで、特に関心を持つことはなかった。漢字で表記しただけで中国人ではない人だな、私はそう思っただけだったのである。
この「上海雑談」の中から気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「ところで、ロシア語などでは中国のことを「キタイ」というんです。キタイは中国の北方に遊牧していたモンゴル系の民族のことで、その複数をキッタンといい、中国ではそれをとって「契丹」と呼んだのです。契丹は十世紀に強大になり、北方中国に「遼」という王朝を樹立しました。中央アジアの人たちにとって、中国とはキタイでした。この名称はヨーロッパに伝えられ、ロシア語では中国人のことはキタイスキーです。英語でも「キャセイ Cathay」が中国のことを意味し、航空会社の名前になったんですよ。
耶律楚材は、その契丹族の皇室の一員として生まれたのですけれども、百年ぐらい前に契丹は東から興った女真族の王朝の「金」に滅ぼされました。彼のお父さんや祖先は契丹の人だけれども、遼の遺民となり、そして金に仕えたんです。狩猟生活集団からいきなり大政権に成長した金は、実務官僚が少なかったので、滅亡した遼の契丹族の人材を優遇したり、いちはやく科挙の制度を復活して、知識人を懐柔する政策をとったりしました。
ところが時代は大きく転換して、金が今度はモンゴルに滅ぼされます。金に仕えていた耶律楚材は、燕京(北京)が陥落すると、その祖先と同じように、今度はモンゴルに仕えるんです。自分の国を滅ぼした国にですよ。どうしてそういう人間ができたんだろうというようなことで、耶律楚材の生涯に興味があったんですね。」
続いて「先ほど耶律楚材はモンゴルが興起した時代の人と言いましたけれども、その頃のモンゴルは、文字もない、ただの武力集団でした、当時、中国の支配者だった女真族政権、金の外交政策によって内部抗争ばかりしていましたが、そこにチンギス・ハーン成吉思汗、1162〜1227年)という軍事天才があらわれたんです。しかし、モンゴルは行政はまるでわからない。そこで、モンゴルをうまく誘導しないと大変なことになると、その当時の中国のインテリたちは考えたに違いないと思いますね。その代表として耶律楚材がいたということでしょう。」
私はここまできて読んで思う。モンゴルのチンギス・ハーンは軍事の天才ではあったが行政はまるでわからない、そのとき耶律楚材は数奇な運命に導かれ、宰相としてチンギス・ハーンに仕えることになったという。この耶律楚材の行動を突き動かしていたものは、何だったのだろうか。中国の持つ大同の思想が根底にあったのではないだろうか、そう思ったのである。よるべき思想が大同以外にあったとするならば、それはなんであったのだろうか。
チンギス・ハーンと耶律楚材の時代は、非文明人に文明人が仕えたと言い表せるのかも知れない。だからこの時代はその文明が守られ非文明を包合し、なおさらに発展していったのであろう。
つまり、非文明人はその文明を壊すのではなく利用したと言うべきであろう。非文明人も文明人になる道を選んだのである。
今日はここまで。

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