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2004.11.10

陳舜臣の「上海雑談」を読む-06

むかしその名を覚えてもう忘れてしまった言葉に「日米修好通商条約」というのがあったことを思い出した。江戸の末期1858(安政5)年のことであった。この本を読みながら、アメリカとの付き合いも長いものだなと思ったのである。
この「上海雑談」の中から気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「オスマン・トルコのメフメット二世が、1453年にコンスタンチノープル、今のイスタンブールを陥落させたときに、人口が激減しました。戦火による被害もありましたが、戦争前に避難した住民も多く、推定人口十万ほどだったのが半減してしまいました。そこで、メフメット二世は半減した人口の回復を図ろうとして、まず、アナトリアやバルカンなどオスマン・トルコ領に住むトルコ人をはじめ、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人、ブルガリア人、セルビア人らを強制的に移住させたのです。」さらには、外国人貿易商を呼び寄せるために、「来ればこれだけの権利を与えるから、来てくれ、来てくれ」と奨励しました。治外法権を与える、いわゆるカピチュレーション(Capitulations)が制度化するのはややのちのことですが、メフメット二世は人口回復のために外国人に対する優遇政策をとったのです。
西アジア諸国が通商の拡大と税収の増大のために外国商人に恩恵を与えた、こうしたカピチュレーションという制度は、当初は外国人の誘致政策でした。しかし、十九世紀になると、逆に相手から押しつけられるものになりました。アヘン戦争後には、欧米列強が中国と条約を締結するとき、中国にカピチュレーションを押しつけました。」
私はここまで読んできて思う。この中国の事実を聞いている江戸時代末期の日本は開国にあたって議論百出して迷走し、「日米修好通商条約」を締結している。こうしてこのときから日本も地球規模の商圏の一端に加わったのだ、そう思ったのである。
今日はここまで。

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