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2004.11.22

石井米雄の「メコン」を読む - 06        「港市国家「カンボジャ」」

昔、シャムの山田長政の話を聞いたことを思い出した。アユタヤの日本人町の長だったことと、シャム王に仕え日本人を引き連れて勇敢に戦ったことくらいしか覚えていない。日本人が海外で活躍していたことが不思議な話として、いまだに記憶に残っていた。
この「メコン」の中で出合った「港市国家「カンボジャ」」という気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「港市国家において河川が、後背地で集荷された輸出用物産を輸出港に運ぶ運送路として、決定的な重要性を持つ。メコン河は港市国家「カンボジャ」ーーー具体的にはプノンペンでありローヴェークでありウドンーーーを、森林産物の豊かなラオスと連結する一方で、これを南シナ海という外洋に結びつける役割を果たしていたのである。
「港市国家」の特徴のひとつに、住民の多民族性がある。交易による利益をめざして世界の各地から商人が集まり、そこに定住し、やがて家庭を営んだ。十七世紀のタイの首都アユタヤは代表的な港市のひとつだが、そこには一時期四十三カ国の人々が集まっていたという。カンボジャの場合もその例にもれない。」
つづいて「十六世紀末から十七世紀にかけて、日本人はカンボジャに「柬埔寨」という文字をあてていた。その「柬埔寨」から一五六九年、商船が九州の沿岸に来航している。一六〇〇年、天下の権を手中に納めた徳川家康は、早速交易を望む書簡を東南アジア各地の国王に送っているが、一六〇三年にはカンボジャ王に書簡を呈して友誼を求めている。日本からは御朱印船貿易を担った商人たちや、宗教弾圧の難を避けたキリシタンがカンボジャに渡った。一六一八年当時カンボジャには、七十名もの日本人キリシタンがいたという。
岩生成一博士の考証によると、カンボジャの日本人町は、オランダ人がピニャールー(ポニャール)と呼んだウドンとプノンペンの中間地点にあり、十七世紀半ばにおいて二百人以上の人口を有していた。カンボジャに派遣された御朱印船の数は一六〇四年から鎖国の始まる一六三五年までの三一年間に四十四隻に上がるので、この数字から考えれば在留邦人の数が二百人をこえたとしても不思議ではなかろう。」
私はここまで読んで思う。海外に出て活躍した日本人も、鎖国によって日本に帰る術を失い現地に同化していったものと思われるが、その後どうなったのだろうか。世界のあちらこちらには、かって何らかの理由で故国を離れた人々がたくさん暮らしているのだと思う。日本人自身もかって遠いところから流れ着いた祖先をもっている人が多いのではないか。だが何代もたつうちにそのことは忘れ去られていつのまにか周囲に同化していってしまうのだろう。生きるということはそういうことだ、改めてそう思う。
今日はここまで。

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