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2004.12.05

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-08 「三鷹市の歴史・村々のなりたち・井の頭」

井の頭公園は子供のころからの遊びの縄張りであり、善福寺とともに今でも巡回しているのである。子供のころからは、目に見えてさまざまなところが変わっているが、少しも変わっていないところがあると感じている。それがなんなのかわからないのであるが、少しも気にならないところが面白い。
「井の頭のあらまし」の中の「三鷹市の歴史・村々のなりたち・井の頭」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「井の頭
 国電を吉祥寺駅で降り、南口へ出る。デパートがいくつもできて、にぎやかなアーケードなど副々都心となってゆく北口にくらべて、こちら側は繁華街の幅もせまい。道は緑濃い井の頭公園にすぐ入っていく。公園は御殿山とよばれる松をまじえた雑木林におおわれ、都立自然文化園のある台地上の部分と、弁財天や文化園の分園である水生動物園、ボーと場のある池辺とにわけることができる。いまの行政区画では、上の御殿山の地は武蔵野市、下の池とその周辺が三鷹市となっているが、一般遊覧の人には関係のないことである。御殿山一帯は、江戸時代は幕府の御用林であって、井の頭水源を養うための山林であった。
 弁財天は、その縁起によれば、約九百年前、関東源氏の祖である六孫王源経基が建立したもので、源頼朝が東国平定のとき戦勝を祈願し、大願成就ののち堂宇を改築したなどといわれている。また、新田義貞が足利氏と対戦したとき、兵火のために焼失したままになっていたものを、徳川三代将軍家光が再建し、その社殿が大正十三年四月に、火災のため焼失したという。豊かな湧水にめぐまれたこの地は、古代から人の生活が営まれていたであろう。古代から水神が祀られていたにちがいない。それが弁財天の信仰となったのであろう」
私はここまで読んで思う。この文章が書かれたときから、もうすでに25年経っている。井の頭公園の池のまわりを散歩しながら、時の流れに思いをはせると、夢のように様々なシーンが浮かんでは消えていく。
いま、井の頭公園のお花見のころには、桜の下にたくさんの人が集うようになっているが、江戸時代にはこの井の頭の地を通り越し、小金井堤の桜を見にいったという。
いま、御殿山のイヌシデの林はごつごつと古木の相をていしているが、若木のころの柔らかさは人々の心に絵のようにある。しかし江戸時代のその姿形は知る由もない。
いま、江戸から弁財天に向かっていた道も一般遊覧の人々には遠く、ほとんど伺うこともない。
今日はここまで。

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