« 武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-04 「三鷹市のおいたちと地名の由来・三鷹村の誕生」 | トップページ | 武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-06 「三鷹市の歴史・村々のなりたち・下連雀」 »

2004.12.02

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-05 「三鷹市の歴史・村々のなりたち」

三鷹市の杏林大学病院や三鷹中央病院などを知り、井の頭公園の南側などを歩き回るようになって、三鷹の地理にもほんの少し明るくなっている。
「井の頭のあらまし」の中の「三鷹市の歴史・村々のなりたち」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「今の三鷹はバスの走る舗装道路と商店、住宅、工場のつらなっている都市であるが、こうなる直前は、雑木林と畑の農村であったことは、誰にも考えられるとおりであろう。そして、これらの村々が集落を形造った最初は、だいたい四百年ぐらい前の近世初頭と思われる。天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉が小田原の北条市を滅ぼし、天下を統一し、その臣徳川家康が江戸城に入り、慶長十年(一六〇二)江戸幕府を開き、日本の歴史は近世に入る。これまで戦乱にあけくれていた野武士や、その一族郎党が、一定の土地に居つき、農耕の生活に落ち着きはじめるが、武蔵野地区のような比較的人の文化から遠かった土地では、よその土地から移ってきた人が村落をひらいているようである。三鷹市の地域で、この時代のことを考えると、ここでも台地の上と東南の水と緑のある地の区分が考えられる。古代の遺跡のある、つまりおおむかしから人類の足跡のある牟礼(井の頭)、仙川(北野・新川を含む)、大沢の地にまず近世の村落がつくられている。
 武蔵野台地の上は、いちめんの草原で風の吹き荒れる乾ききった土地で、人は住めなかったのである。玉川上水の開通などで、こうした土地も開発され、江戸周辺の農村となってきたのである。
 本文のいちばん始め、「三鷹」の地名のところで書いた、江戸時代の十ヵ村の地域ごとに、村のなりたちやその後のことを述べてみることにする。」
私はここまで読んで思う。大昔、武蔵野地区でも水のない台地状のところには、確かに人は住んでいなかったに違いない。そこに朝鮮半島からやってきた人たちが、差し向けられたか、自ら求めてきたか、わからないが、人無きところにきて開拓したと思われ、そのあとが地名として残っている。江戸時代になると、江戸に集まってきた人たちがふたたびみたび、江戸周辺に農地開拓のため差し向けられることが多くなっていったように思う。このような農地拡大の現象は高まった人口圧が拡散していく過程で、自然のなりゆきだったのか社会的施策によるものだったのかわからないが、これによって江戸的調和は保たれていったように思う。
今日はここまで。

|

« 武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-04 「三鷹市のおいたちと地名の由来・三鷹村の誕生」 | トップページ | 武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-06 「三鷹市の歴史・村々のなりたち・下連雀」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/12847/2132974

この記事へのトラックバック一覧です: 武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-05 「三鷹市の歴史・村々のなりたち」:

« 武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-04 「三鷹市のおいたちと地名の由来・三鷹村の誕生」 | トップページ | 武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-06 「三鷹市の歴史・村々のなりたち・下連雀」 »