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2004.12.07

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-10 「三鷹市の歴史・村々のなりたち・井の頭-3」

井の頭公園の散歩ではめったに行くことはないが、このあいだ井の頭池の南の台地の上を歩いたことがある。いつしか見慣れぬ通りにでていて、気がつくと黒塗りの鳥居をくぐっていたのである。
「井の頭のあらまし」の中の「三鷹市の歴史・村々のなりたち・井の頭-3」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。
「井の頭四丁目の弁財天参道入口の延亭二年(一七四五)の「神田御上水源井の頭弁財天」の道標はいまも堂々と立っている。棹石の長さ2・4メートルのりっぱなものである。この山道の入り口には黒門がある。黒門は黒塗りの木の門なのだが、霧除けのような屋根がつけてあるため、鳥居のように見える。道標の三段の台石には多数の寄進者の名が克明に刻まれている。それらはほとんど芝居関係の人たちで、新和泉町、新材木町、葺屋町、坂井町、岩代町などの町名、中村座、肥前屋、薩摩座の名や瀬川菊之丞、中村勘三郎などの名優の名もある。

 大盛寺の門前、弁天堂へ下りる石段にちかく、いくつかの石造物がある。その中に、とぐろを巻いた蛇身に老人ふうの人の首がついているのがある。日本古来の水神である宇賀神と弁財天と習合した姿である。
 そのすぐ横の灯籠一対は、江戸紫紺問屋、紫染屋の寄進したもので「紫灯籠」といわれている。
 農耕の民にとっては、旱天は大問題であり、雨乞い、水乞いは大きな行事であった。井の頭の池水を汲んでは降雨を祈ったのである。地元の牟礼村の農民はもとより、遠く大崎、五反田方面からも、この井の頭に雨乞いに来る風習は大正ごろまでつづいていた。
 幕府直轄地であったこの土地は、明治維新後岩崎伝次郎が払い下げを受けたが、明治七年東京府が買い上げ、明治二十二年宮内省の御用林となった。その後、大正二年にそっくり東京市に下賜された。東京市は公園としての設備を整え、大正六年「井の頭恩賜公園」と名づけ、一般市民へ公開した。それ以来、東京人の郊外公園として、いまにいたっている。杉の大木が多く生い茂って昼なお暗いような環境だったが、太平洋戦争の末期に、物資不足を補うため、どしどし伐られ、殺風景なありさまになってしまった。その後、自然文化園が設けられ、公園として整備されたが、杉木立の深いしずけさはいまはない。」
私はここまで読んで思う。吉祥寺の側から井の頭公園を縄張りとしていた子供のころの私には、池の南側の台地の奥に入ったことがなかった。池のまわりは杉木立で薄暗く、赤マントが出るなどのうわさ話が飛び交っていて、特に午後遅くは子供たちだけで近寄る場所ではなかったのである。だから牟礼の世界は別世界であった。
七井橋の先の狛江橋をわたって右に曲がるとトチノキの林があるが、戦時中そこにはプールがあって、近隣の小学生は先生に引率されて水泳の時間を過ごしていたのである。湧き水を利用した冷たいプールで人身事故も起こっていた。戦後、プールもいつのまにかなくなって、探してみるとトチノキの林になっていたのである。
戦争中には池に1トン爆弾がたくさん落とされ、いまだに池のそこには不発弾が沈んだままになっているという。
井の頭文化園ができたころ、まだそこには大きな杉木立がすこし残っていた。園内に入ると左手の杉木立の中に東海道五十三次という細い道が作られ、よく歩いたことを覚えている。そのころ動物園があったとしても貧弱なものだったのだろうか、覚えているものは何もない。
今日はここまで。

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