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2004.12.14

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-17 「三鷹市の歴史・村々のなりたち・鷹場」

鷹狩りをするようなところは、見通のよくきくところが好ましいのではないかと思うが、武蔵野はそのころ見通のよくきいた野原だったのだろうか。今の御殿山の林のような状態では鷹狩りには不適であろう。武蔵野は原野だったとすると、ここに展開している林の木々はきっと開拓にともなって持ち込まれたのだ と思う。
「井の頭のあらまし」の中の「三鷹市の歴史・村々のなりたち・鷹場」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「三鷹という地名が付けられたのは、かって鷹場であったことからであろうと、はじめに書いた。では、鷹場とはどんな所だろうか。徳川の将軍が鷹猟の遊びにくる、青空とみどりの山野を思いうかべるのみで、鷹場村々といわれる地域の実情は、あまり知られていない。
 鷹場は鷹狩りをおこなう場所である。鷹狩りは放鷹ともいわれる。飼い馴らした鷹を握りこぶしに止まらせ、乗馬で山野を駆けめぐり、鷹を飛ばして野鳥や兎などを落としたり、捕らえたりするのが鷹狩りである。そのはじまりは古く、鷹を手にとまらせている埴輪(はにわ)もあり、中国やヨーロッパでも王侯、武士のあいだにおこなわれていた。ほんらい心身鍛練と軍事訓練と、武人としてのレクリエーションを兼ねたものである。後には政治的なねらいが加味されて、領内の民情や敵地の情勢をみずからの眼で確かめる役割を持つにいたった。
 徳川家康も狩が大好きだった。江戸のまわりの各地にしばしば鷹狩に出かけ、代官の農民支配や、旗下(はたもと)、御家人(ごけにん)などという幕府直接の家臣たちの領地支配の実情や、村民のくらしぶりを実地にしらべたり、農民たちの訴えをじかに聞いた話が、いくつものこっている。」
私はここまで読んで思う。やはり武蔵野は草原だったのだと思う。殿様が外出する口実に鷹狩りがふさわしく、たびたび鷹狩りがおこなわれているというのも初めて知ったが、視察を兼ねていたなどなかなか面白い話である。
今日はここまで。

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