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2004.12.16

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-19 「三鷹市の歴史・村々のなりたち・伝馬・助郷」

伝馬・助郷という言葉は聞いたことがあるが、具体的にどのようなことだったのか知ることはなかった。だいぶ前になるが、吉祥寺東町の本宿小学校の本宿とは何ですかと、4年生に質問されて調べたことがあった。本宿のいわれについて、いまだにはっきりわからないが、そのとき伝馬・助郷という言葉に触れたのである。
井の頭のあらまし」の中の「三鷹市の歴史・村々のなりたち・伝馬・助郷」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「伝馬・助郷
 徳川幕府は江戸を中心に、東海道をはじめ五街道を一級国道として開設した。甲州街道もその一つである。江戸日本橋を振り出しに四ツ谷、内藤新宿、高井戸、布田五宿(今の調布市)府中、日野、八王子から小仏峠をこえて甲斐の国(山梨県)に入って甲府まで、さらに信濃の諏訪で中山道(なかせんどう)に合うのが甲州街道である。もともとは甲州道中というのが正しく、街道とは後になって、そう呼ばれるようになったのである。それに海道の字が使われていることも多い。
 三鷹市と甲州街道との関係は、南端のほんの一部が街道に街に接しているに過ぎないのだが、江戸時代の農民のくらしに忘れてはならない重い負担になっていたのである。
 鉄道や自動車、その他の交通機関のなかった昔、都と地方を結ぶ道の役目は重要だった。平安時代から国道や駅制が設けられた。たとえば京都から東京へ来るとして、今のように列車や自動車に乗って、そのまま着くことはできない。その間にたくさんの駅(宿場)を作って、休んだり、泊まったりするほかなかった。駅には人足や馬が用意されていて、政府の役人などの旅人や荷物を、次の駅まで送り、そこからはその駅の馬が、また次の駅へ人や荷を送る、というように順送りしたのである。江戸時代になると、前に書いたように五街道などが整備されたのである。東海道五十三次はその中でも代表的な街道である。甲州街道は甲府まで三十六宿、甲府から下諏訪まで六宿といわれている。開設当初は江戸日本橋がふり出しで最初の宿場が高井戸だった。その間の距離が長くて不便だったため、後になって内藤新宿ができた。そのため新しい宿、新宿といわれ、今もその名がのこっている。
 幕府の役人であるさむらいや、そのほか公用の荷物などを運ぶために、たくさんの人や馬を宿場では用意しなければならなかった。このことを伝馬とか伝馬役とかいうのである。宿場は旅人の往来があるので賑やかになり、商売もできたが、伝馬の負担は大きかった。それで、宿場近隣の村々から人や馬を出して助ける制度が助郷である。始めは繁忙のときに臨時に助郷に出たが、後には常用となった。定助郷ともいわれる。」
私はここまで読んで思う。吉祥寺町のころ、馬が人を乗せたり荷を引いているのを見た記憶がある。道には馬糞が落ちていて、近所のおじさんがそれを拾って家庭菜園の肥料にしていた。伝馬をキーワードにウエブ検索してみると、 伝馬小学校 というのがあり、 内藤新宿 の話がでてきた。
助郷をキーワードとしてウエブ検索もしてみたら 助郷の歴史 助郷村の田無 という話がでてきた。
こうしてさらに、伝馬・助郷制度が江戸期の大事な制度の一つであったことを知ったのである。
今日はここまで。

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