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2004.12.18

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-21 「武蔵野市の歴史・地名の由来」

武蔵野市の歴史にいよいよ入ることになる。このシリーズの 「井の頭史跡散歩」を読む-03 「三鷹市のおいたちと地名の由来・三鷹村の誕生」 では、「武蔵野」が良いのではないかとなったが、お隣で先に「武蔵野」村ときめてしまったから三鷹村と名づけたといわれている、とあった。「武蔵野」村は、ではどのようにして誕生したのだろうか興味があるところである。
「井の頭のあらまし」の中の「武蔵野市の歴史・地名の由来」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「武蔵野という市名は、本当にいい名です。この名をだれがつけたかわかりませんが、この村名が明治二十二年に、吉祥寺、西窪、関前、境の四村がいっしょになり、大きな村を作ったとき、武蔵野という名がつけられました。
 「武蔵野村」、ほんとうに頭のいい人がいて、考えてくれたんでしょう。武蔵野の名は、古い文章や、和歌などに、たびたび出てきますが、明治二十八年ごろ、この辺を歩いた文士、国木田独歩の「武蔵野」一文により、いっぺんに有名になりました。
 それより前に村名として、「武蔵野」をつけたのだから、りっぱなものです。
 そして、昭和三年十一月に町となり、同二十二年に市となっても、「武蔵野」の名は、そのまま使っています。
 武蔵という名は、古代は「旡邪志(むざし)」とか「胸刺(むなざし)」とかに書かれていますが、時代がくだると、「ザ」を「サ」と清音でよぶようになります。
 「ムサシ」という言葉が、どこからきたのか、現在ではわかりません。アイヌ語だろう、いや、朝鮮語だ、などのほかに、国語が転化したのだという説、武蔵野の土語方言(ほうげん)だという説などがありますが、どの説も、あきらかではありません。
 しかし、武蔵野という言葉は、広々とした野原や、森や林を思い出させます。」
私はここまで読んで思う。子供のころ「武蔵野第三」小学校に行っていたから、今でも「むさあしのだいさん・むさあしのだいさん」と校歌の一端が口をついて出てくる。その頃は武蔵野町吉祥寺で、吉祥寺というより武蔵野町が故郷の名前であった。
「武蔵野村」をキーワードとしてウエブ検索してみると 「花園町」 というとても面白いページに出合った。市町村概要には、
「埼玉県北部に位置し、15.82平方キロメートル、人口約12600人、これが花園町です。
 明治22年(1889年)4月1日、町村制の施行により、武蔵野村・小前田村・荒川村・黒田村・永田村・北根村の6カ所が合併、花園村としてスタートを切りました。
 花園という名は、戦園時代にこの付近一帯を領有した藤田康邦の古城「花園城」の名にちなんでつけられたものです。
 その後、昭和58年町制へ移行、現在に至ってます。」とある。
江戸時代にすでに「武蔵野村」は存在していたのである。
そしてまた、この近くに 「牟礼村」という村があった こともわかったのである。
榛沢(はんざわ)郡の、小前田村,武蔵野村,荒川村,黒田村,永田村,北根村が一緒になって、花園村となり、男衾(おぶすま)郡の、富田村,牟礼村,今市村,赤浜村,西古里村,鷹巣村が一緒になって、男衾村となっているのである。
だが、「武蔵野」という名前をどうして選んだのかという肝心なところは、ウエブ検索で見つけることができなかったのである。
今日はここまで。

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