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2004.12.20

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-23 「武蔵野市の歴史・徳川時代・村々のできるまで」

まだ子供の頃、吉祥寺から善福寺池を越えて三宝寺池に行く道すがら、まわりはみな畑であったことを覚えている。人の手がかかったところばかりで、見渡す限りの原っぱなどを見た覚えはもちろん無い。また、縄張りの中で葦を見たのは善福寺池の下池だけであった。だが近所にはほんの小さな原っぱがいくつかあって、そこが子供たちにとって自由の天地であった。
「井の頭のあらまし」の中の「武蔵野市の歴史・徳川時代・村々のできるまで」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「徳川時代
 そして、徳川家康により、江戸に幕府が開かれます。三代将軍の家光の政保元年(一六四四)に調べたときの村々は、田無、無礼はありますが、武蔵野市内は、全部原野であって、一軒も家はありません。
 当時、この辺の原っぱに草かりに行くにも、杭を立てて、草かごをむすんでいないと、風にとばされてしまうし、強風のときなど、人までふきとばされたと古文書にあります。
村々のできるまで
 そんな原野の中に、村々ができ上がったのは、江戸の街が大きくなるにつれて、火事が多くなり、明暦三年の大火には、江戸城の本丸が焼けるしまつで、その翌年の四年正月にも大火があって、幕府も江戸の市区の改正を行うことになりました。
 吉祥寺村や、西窪村は、この改正により、江戸の市街地から移された人たちの作った村です。この両村のできる前には、大原野であったことは、家光頃から、幕府の人たちは、よく知っていました。
 そのことは、寛永二年に、家光をはじめ、多くの人たちが御殿山を中心として、鹿狩りをやった記録があります。その当時は、まだ、武蔵野市には、鹿や猪が、たくさんいたのです。
 家光も、槍や刀で、鹿をとったといわれます。当時は、まだ、戦国の気風がぬけず、武士たちの間では、こんなリクリエーションをやっていたのです。
 それから後、政保四年八月、御殿山で、幕府ではじめての日本人による大砲(おおづつ)の試射をやりました。獣や鳥たちは驚いたでしょうが、弾丸はあまりとばなかったようです。
 この頃は、まだ日本国内も安定したときではなく、島原の乱や、由井正雪の乱などがあり、まだ新田開発などには、着手できません。しかし、一方、江戸の人口はいよいよ増えるばかりで、次の将軍家綱の頃には、人口一百万人をこし、世界第一の都市となりました。当時、ロンドンが八十万人、パリーが五十万人の人口だったそうです。
 江戸の人口がふえるにつれて、埋立てをやり、海の方へ広げはじめました。その埋立ての市街地の人たちは、水の悪いのには弱りました。
そこで、井の頭池の水や、多摩川の水を、江戸に流し入れる計画がはじまりました。
 井の頭池の水がいいことは、以前からわかっていましたから、これを用水として、神田方面に流します。神田御用水です。」
私はここまで読んで思う。吉祥寺村の辺りがまだ大原野であった頃、井の頭池や善福寺池から流れ出す水は川となって、どこに流入していたのだろうか。そしてまた、どこから用水になったのだろうか。さっそく 「神田用水」 をキーワードとしてウエブ検索をしてみると、「江戸の水道」という面白いページを見つけた。そこには、
「江戸は、江戸湾に面する低湿地帯である為、井戸を掘っても塩分を含んだ水しか出ませんから、そこで家康は城下町の整備における上水道の必要性を痛感し、8月1日の江戸入府に先立ち、7月12日に家臣の大久保藤五郎忠行を派遣し、高田川の水を引いて小石川辺りまで通じる小石川上水を開削させた。この功により忠行は「主水」の名を名乗る事が許された。これ以来大久保家では代々主水を名乗り、幕府の菓子司を務めています。
 寛永12年に参勤交代制度が確定して、人口が多くなるにつれて小石川の上水も拡張工事が進められる。寛永年間には神田用水に名前を変えた。この本流は吉祥寺村(現在の武蔵野市井の頭)井の頭池から高井戸村、和田村、堀之内村を経て和泉村で善福寺池から流れ出ている善福寺川と合流します。
 そこから中野村を過ぎて北に折れ、落合村で妙正寺池から流れ出ている井草川と合流して、さらに東に向かって関口村(現在の文京区)から江戸の町へ入っています。関口村には大洗堰を設けて流水を二つに分け、一方を上水とし、もう一方は江戸川へ流した。
 神田上水はここから水戸屋敷(現在の後楽園)を経て、神田川を懸樋(かけひ)で渡し、そこから、地中を木管や石樋で神田方面(現在の千代田区)へ給水されていた。」
つぎに「江戸川」をキーワードにしてウエブ検索をしてみると, 「江戸の原型と神田川の流路」 という面白いページも見つかった。
「■徳川家康が秀吉に命じられて江戸に入った時は、現在の東京駅と皇居の間には「日比谷入江」が東京湾から入り込んでいました。東京大学がある本郷台地は南に伸びて東京湾に突きだして半島のような「江戸前島」を形成していました。江戸前島の南端付近に現在の新橋があり、北に向かって有楽町、東京、神田、お茶の水と立地していきました。
 ■神田川の原型は「平川」だというのが通説です。「平川」は日比谷入江に注いでいました。」
「神田川の写真集」 のなかの「神田川のプロフィール」には,昭和初期までの名称と、江戸以前の名称について触れていて、昔は「平川」だという。
そこでさらに、「平川」という川の名称を探ってみると、 「大江戸城下 神田川を漕ぐ」 という面白いページがある。そこには、
「神田川
 神田上水として、神田、日本橋方面へ飲料水を供給していた日本最古の上水道神田川は、池底七ヶ所から水が湧くので七井の池と呼ばれていた、中央線吉祥寺の井の頭池だ。神田川はその昔、「平川」と呼ばれ、和田(杉並区)、落合(新宿区)を通り、関口(文京区)に至り、さらに飯田橋、九段下を通り、日本橋川となり江戸城外濠に利用された。
 ところが小石川との合流点あたりが、常に水害に悩まされるので、万治3年(1660年)の工事で流路を変え、それにより「平川」の名は消え、目白台下の関口より飯田橋に至る間は江戸川、飯田橋より浅草橋に至る間は神田川と名付けられた。
 関口で分水され、江戸川と並行していた「神田川上水」は方向をかえ、小日向台、小石川台のすそをまいて元水戸藩邸、現在の「後楽園」にも分水し、小石川の上を掛け樋で渡り、今までの開渠から埋設石樋に変わり、再び掛け樋で神田川をわたり、神田日本橋一帯に配水されていた。
 明治23年(1890年)衛生上の理由から約300年続いた生活用水の役目を終えた。
 −「水の文化誌」岡部守(論創社)・「神田川物語」坂田正次(郷学舎)他−」
とある。また 「神田川水系」 「神田川ウオーキングガイド」 も参考になる。
さらに 「中央郷土史同好会」 も参考になる。 「江戸の歴史、早稲田の歴史」 「江戸を造った日本橋川」 「関東大震災、大東京圏の揺れを知る」 も面白い。
今日はここまで。

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