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2004.12.19

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-22 「武蔵野市の歴史・地名の由来-2」

吉祥寺の東町というのは武蔵野市の東のはずれで、五日市街道と JR 中央線の北側になる。昭和40年代までの中央線は地上を走っていたので、吉祥寺の東のはずれのあたりには高い土手が作られ、谷状の地形が遮断されていた。だから、この土手の北側に大雨が降ると水が溜まり、巨大な池が出現していたのである。
当時の国鉄はこの状況に何も手を打たなかったから、そのあたりの家には木の船が備えられていたのを覚えている。戦後になって、ここに大きなポンプ場ができて、大雨のときに活躍するようになり、雨水が溜まって池になることはなくなっていた。
「井の頭のあらまし」の中の「武蔵野市の歴史・地名の由来-2」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「いまの武蔵野市では、昔の面影はすこしものこっていませんが、以前は、原野や、山森におおわれたいた、広い土地だったのです。
この平らだと思える市内にも、所々に、凹んだ地形が約十ヶ所もあります。
以前は、大雨でもふれば、野水がわきでて洪水さわぎがおきました。
昭和二十六年頃まで、吉祥寺の東急前とか、市役所の北側とかは、腰のあたりまで、水がでたことが、たびたびでした。
標高五十五メートル内外の市内の中に、深さ一メートルから二メートル五十センチのくぼんだ場所があるのです。
古代には、井の頭の池のような場所がもっとあったのかもしれません。
いまでは、ぜんぶ住宅になっていて、あまりよく、わからなくなってしまいました。
井の頭池のように大きな池は、のこりましたが、この池も、いまでは、水がわき出さず、ポンプで地下水をくみ上げています。
こんな、水のわきでるところを「台端湧泉(だいたんゆうせん)」とよび、武蔵野台地には、ところどころにあるのです。善福寺の池も、深大寺の池も、石神井の池も、みんな「台端湧泉」です。
こんな、清水のわきでるところは、人も住むようになり、獣のあそび場にもなります。
武蔵野市の文化は、この「台端湧泉」の一つである、井の頭池のまわりから、幕があきます。」
私はここまで読んで思う。戦前になるが、吉祥寺本町の東のはずれあたりにも、池があったという話を聞いたことがある。そのころはどこの家にも必ず掘り井戸があり、のぞいてみるとそれほど深い井戸ではなかった。現在でも 武蔵野市の水道の水の60%強は深井戸からくみ上げた地下水 を使っているのである。
「台端湧水」という井の頭池、善福寺池、石神井・三宝寺池は、私の子供の頃の遊び場の縄張りであり、現在もそうなのであるが、昔は武蔵野台地のはずれに湧き出た水でできた池と覚えていたものである。
今日はここまで。

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