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2004.12.21

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-24 「武蔵野市の歴史・徳川時代・村々のできるまで-2」

吉祥寺の武蔵野第三小学校で戦時中をすごしたのち、武蔵野第一中学校に入学した私は、そこではじめて西窪、境、関前などの地名が武蔵野町にあることを知った。そのとき新制中学校は武蔵野町にまだ一つしかなかったから、全町から生徒がかよってきていていたからである。
「井の頭のあらまし」の中の「武蔵野市の歴史・徳川時代・村々のできるまで-2」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「一方では、人口が増加するばかりで、野菜をはじめ、食料の供給場所が不足してきます。
 また、一方、前にも述べたように、火事の多くなったこともたしかで、屋根の板ぶきを、瓦ぶきにさせたり、土蔵造の家を作ったりしますが、最後には、市区の改正となって、吉祥寺村、西窪村の開発となったのです。
 ですから、代替地としてもらったったため、五日市街道を中心として、南北に一軒分ずつ、きっちりと分けられ、現在でも、そのあとがのこっています。
 新田を開発するのは、大変な仕事なので、五年間はただで食料をあげるし、家をたてるお金も貸しますといって移住者を集めました。
現在、吉祥寺東一丁目にある安養寺門前の庚申塔には「布施弾正、石橋新蔵、荻野松庵」などの武士の名が出てきますが、幕府の浪人対策にも、新田開発は必要だったのかもしれません。この庚申塔の年号は寛文五年ですから、吉祥寺が開発され、代官から検地をうけた翌年にたてられたものです。
 このような石塔がたてられるようになったのは、吉祥寺村の開発が安定したものとなり、村人の生活にも、よゆうができたからでしょう。
 この寛文年中には、ほうぼうで新田が作られます。西窪村も同二年に開発をはじめ、関前村も同十年に、境村も年代ははっきりしませんが、同じ頃に開発されました。やっと、武蔵野市となるきそができ上がったのです。」
 私はここまで読んで思う。子供の頃の五日市街道は舗装などはなく、ただ大きな道であり、当時の省線(国鉄・中央線)と交差しているところに大踏み切りがあって、踏み切り番が旗を振り遮断機を上げ下げしていた。中央線の駅になっているのは吉祥寺と武蔵境であり、西窪と関前は五日市街道とともにあるという感じである。武蔵野町が武蔵野市となり、町の名前も次第に増えて区画も整理されてきているが、五日市街道に関していえば、左右に広がる櫛形の道は今でも健在であり、歩いていて方向感覚を失うことは希にしか起こらない。
今日はここまで。

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