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2004.12.22

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-25 「武蔵野市の歴史・徳川時代・村々のできるまで-3」

子供のころ遊びの縄張りが一番遠くまで延びたところに、武蔵関があった。西武新宿線の武蔵関駅である。そのうち、駅から近いところに関公園という池のある公園ができて、なんども遊びに歩いていったものである
五日市街道をバスで中学に通っていたころ、関前というバス停があって関という文字に何となく懐かしさを覚えたことがあった。武蔵関を覚えていていたからである。
「井の頭のあらまし」の中の「武蔵野市の歴史・徳川時代・村々のできるまで-3」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「西窪村は、西久保ともかきますが、この村のはじまりも、江戸の大火と、あとではじまった市街地の区画整理によって、移された人たちが代替地をもとめたことによります。組頭以下十七名が芝の西久保城町(港区芝)から開発費用、五十七両を幕府から借りて、この原野に入ってきます。
 当時、おとなりの吉祥寺村が開発中だったので、参考にもなったでしょう。そして、代官の検地は、吉祥寺村と同じ年にうけています。
 西窪村も吉祥寺村と同様に、五日市街道をはさんで、南北に、土地を分けあいました。ですから、両村とも街道に面して家をたて、うしろに、畑を短冊(たんざく)形に持っています。
 明暦三年、四年の江戸の大火は、武蔵野の一角に、吉祥寺村、西窪村の両村を作らせました。
 関前村の開発は、前の二村とは違っていて、「請負新田(うけおいしんでん)」という開発の方法で、開発後、一定の期間、幕府に運上金(うんじょうきん)を納めて、その後、自分の畑とする方法で、現在の住宅ローンのやり方です。
 寛文十二年の文書によると、「関村前(せきむらまえ)」と書かれ、関前村とは書かれていません。このことは、関村(練馬区関)の前方にあって、関村の出身者が中心となって、開発したからであります。その後も、開発がすすみ、関前村の他に、関前新田もできました。」
私はここまで読んで思う。吉祥寺村の誕生を仮に万治三年(1660)として、今年2004年には吉祥寺という名をとどめたまま344年ほど経ったことになる。吉祥寺村誕生の頃の話を読むと感無量のものがある。
今日はここまで。

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