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2004.12.23

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-26 「武蔵野市の歴史・明治時代」

三多摩(南、西、北)郡は明治のある時期に神奈川県になっていたが、そのご多摩川の水を必要とした東京府に戻ったのだそうである。そうしたなかで明治時代を吉祥寺村はどのようにすごしたのだろうか、興味をそそられるところである。
「井の頭のあらまし」の中の「武蔵野市の歴史・明治時代」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「慶応四年、天皇は、江戸を東京とあらため、江戸城をそのまま利用して皇居にします。
 このことは色々の理由がありますが、一番大きな原因は日本の中央であって幕府ののこした諸施設がそのまま使えることなどです。特にできたての明治政府にはお金がなかったからでしょう。
 明治四年の「廃藩置県(はいはんちけん)」によって、武蔵野四村は「品川県」の六番組と、二十番組に入ります。吉祥寺村だけ六番組で、他の三村は二十番組です。県庁は日本橋浜町河岸(がし)にあって、初代県知事は、佐賀藩出身の古賀一平でした。
 廃藩置県が行われる前、四村は一時期「武蔵野県」に入り、品川県に、そして分割されて東京府(吉祥寺村、西窪村)と入間県(関前村、境村)になりました。明治四年十二月のことです。そして、翌年の五月二十二日にまた、神奈川県に四村は入ります。
 こんなに動かされて、村民の人たちは大変だったと思うでしょうが、上の方がさわいでいるだけで、下の方は、幕府時代そのままの村の行政でしたから、さほどさわぎませんでした。」
私はここまで読んで思う。吉祥寺村は、廃藩置県前に「武蔵県」に入り、後に品川県、東京府、神奈川県と極く短い期間に動いていることを知った。そしてまたそれらの動きは、村人にとって係わりのないことであったことも知った。
廃藩置県前後に、このような一見複雑な動きを起こさせた原動力はどこにあったのだろうか。吉祥寺村周辺はすべて幕府直轄の地であり、江戸を離れるとその中心が定まらなかったのかもしれない、と私には思われる。
今日はここまで。

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