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2004.12.24

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-27 「武蔵野市の歴史・明治時代-2」

明治五年五月、吉祥寺村をふくむ四カ村は共に神奈川県に入っている。またその前年の四年四月には戸籍法が公布になって正、副戸長が決められ、戸長には村役人がなっている。
神奈川県に入ったのはまだ吉祥寺村のころであり、ながい時期を神奈川県ですごしている。また戸籍法にともなってできた戸長に村役人なっているが、戸長というのは何をしていたのであろうか。
「井の頭のあらまし」の中の「武蔵野市の歴史・明治時代-2」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「四村がっぺい
 この神奈川県としての四カ村は、東京府となる間に、合ぺいして武蔵野村になります。明治二十二年のことです。
 神奈川県当時、明治十九年、現在の中央線の前身である「甲武鉄道」ができました。そして、明治二十二年四月には、新宿、立川間をはしり、八月には、八王子まで開通しました。
 当時は、単線だったので、新宿、八王子間は五往復で、汽車の待時間は約三時間で、のんびりとしたものです。
 新宿を出発して汽車がは、中野、武蔵境、国分寺、立川、日野、八王子と、約一時間十三分ではしりました。
 すぐ気づかれたと思いますが、現在の武蔵野市で最初に汽車の停車場が出来たのは境です。近在の農家の衆は弁当持ちで汽車を見にくる。境と田無間には定期馬車が走る。国木田独歩は境で降りて桜橋で左折し玉川上水ぞいに小金井に歩く、名作「武蔵野」の書き出しです。停車場前には数軒の宿屋も出来、甲武鉄道中間停車場として繁華を誇ったのは、なんと境だったのです。停車場の誘致について当時境村の秋本喜七・三井謙太郎の両氏が停車場敷地として九反ハ畝十七歩を寄付されたことが武蔵野市史に記載されております。
 武蔵野市の発展は、この鉄道によるところが、非常に大きいのです。」
私はここまで読んで思う。数年前、当時の保谷市新町に仮住まいしていた頃、 五日市街道柳橋交差点近くの仮住まいを起点にし、北は田無へ、西は緑道を小金井へ、南は武蔵境へ よく散歩で歩いていた。
武蔵境へ行くには途中で玉川上水にかかる桜橋をわたった。桜橋をわたる手前で、右手上流に行けば国木田独歩の道をたどり小金井へ、左手下流は左側の広大な東京都水道局境浄水場と右側玉川上水の間の桜通りをとおって井の頭公園に行く。もちろん桜橋をわたってまっすぐに行けば武蔵境の駅に着くのである。
この武蔵境駅から柳橋を通って田無まで行く道は、駅が出来てから大いに発展していたに違いない。定期馬車が走っていたというから、さしずめ後のバス通りというような繁華な道であったのであろう。鉄道の開設が沿線の農家に与えた文化的衝撃は計り知れないものがあったと、私は思うのである。
今日はここまで。

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