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2004.12.25

武蔵野郷土史刊行会「井の頭史跡散歩」を読む-28 「武蔵野市の歴史・明治時代-3」

明治時代に三多摩郡が神奈川県になっていたということは知っていたが、武蔵野市吉祥寺に関してそのことがどのように係わっていたか、今まで考えたことはなかった。神奈川県時代は21年にもおんでいる。昔風にいえば、ふた昔を越えているのである。
「井の頭のあらまし」の中の「武蔵野市の歴史・明治時代-3」を読んで、その中で気に入った文章を取り上げて感想を述べてみたい。

「一日五往復でも、中央に出るただ一本の鉄路です。ですから、神奈川県当時におこった一つの大きい事件でしょう。
 この鉄道によって、神奈川県下の三多摩は、いよいよ大きく発展しはじめたとき、東京府から、神奈川県に対し、三多摩地域を東京府に移管して下さい、との願いが出たのです。
 このことは、東京の飲水である玉川上水は、東京府のものですがその上水が流れている村々は、神奈川県の村々です。玉川上水をせいけつにしようとしても、神奈川県を通じて、村々に指示しなければならず、まことに困ったという理由でありました。
 明治六年に一回、明治十九年に一回と、二度にわたって大蔵省に願いでていますが、どちらも実現しませんでした。
 明治十八年九月、横浜港からはじまったコレラは、神奈川、東京に広まって、手のつけようがなくなり、このときも、玉川上水が問題になりました。明治十九年の願書は、コレラが原因かもしれません。
 明治二十六年に入って、いよいよ移管問題が表に出ると、当時の自由党は、断固反対のたいどで、町、村長も、反対のためにやめるひとが、たくさんでました。
 しかし、この編入問題も、三多摩住民のためを考えたのではなくて、政治の道具として、明治二十六年二月二十八日、国会で決定され、東京府となるのです。
 武蔵野村も、このときから東京府に入りました。
 さて、甲武鉄道と同時期に、武蔵野村となったときの人口は、三千八十九人で、村役場は関前の延命寺の本堂をつかいました。最近当時の数々の文書が本堂を建てかえた時に見つかりました。この中に役場関係の文書もありました。
 そして、明治三十二年に吉祥寺駅ができました。そのときの記念の「さかづき」が、伊勢丹前の道路を作るため、墓地を掘りおこしたとき、一個みつかっています。「停車場開設記念」と書かれた大きな酒杯です。月窓寺にあります。」
私はここまで読んで思う。神奈川県にある相模川について、考えさせられる経験をしたことがある。相模川の上流は山梨県に入っていて、東京の多摩川と同じ上流の環境にある。神奈川県で見聞きした話では、相模川に大水がでたときばかりでなく普段でも、上流から生の下水が流入した川の水が流れてくるので困っているという。つまり山梨県では、下水を生のまま相模川に流しているというのである。その頃、東京都では、多摩川の上流にある山梨県の村に水洗便所の設置費用の補助金を出し、新たに村に編入して家を建てる者には水洗便所の設置を義務づけてもらっている、ときいた覚えがある。
多摩川の源流部は、山梨県内の小菅村と丹波村にあり東京都の水源林になっている。むかし、東京府の水量の確保百年の計のために多摩川水系を東京府のものとした、と聞いたことを思いだした。戦後まもなく水不足になり簡単にこの計は破れてしまったが、1915年に100年後を想定して植樹された明治神宮の百年の森とともに長く記憶にとどまるだろう。
今日はここまで。

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