カテゴリー「雲取山・凍傷克服記」の記事

2004.03.02

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-6

凍傷を受けてから相当の月日が経って、水泡の皮膚を取り除く日がきた。徐々に全ての古い皮膚が除かれると、その下に赤子のように柔らかくて薄い皮膚が新生していた。指先の古くて堅い皮膚は、爪ごと指サックを取り外すようにスッポリと抜け、踵は踵の形のまま大きく靴を脱ぐように脱げた。現れたピンクの柔らかくて薄い皮膚の上には指紋も全て元のままについていて、どこにも何の傷跡もない。今でも私の手足の指と踵には、凍傷の痕跡などは全く見られない。
取り除かれた古い皮膚は足の踵が一番厚く、5mm以上もあった。そして今も私の踵の皮膚はたいして厚くなってはいない。
夜寝ている床の中で、新生した皮膚が布団に触れて痛い日が続いたが、次第に気にならなくなっていった。それとともに他のことにも注意を払って日を過ごすことが出来るようになっていった。更に月日が経つと、もう凍傷のことなどすっかりと忘れている自分にも、気付かなくなっていた。
こうして雲取山登山で受けた凍傷から、私は完全に回復することが出来たのである。

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2004.03.01

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-5

凍傷を受けた指先はゴム製のサックを嵌めたように見えた。そのサックのような指先の水泡が、少し痛いのを我慢すれば取り除けるようになってきていた。健全な皮膚と死んでいる皮膚との境目が取り除くときに少し痛いのだ。さらに、古い皮膚を取り除いてしまうと、その下に出来ている新しい皮膚は赤子の皮膚より薄くて柔らかい桃色の皮膚なので、息を吹きかけるだけで我慢出来ないほど痛い。だから、皮膚を剥がしたいのだが剥がせない、そのような時期がかなり長い間あったように思う。
ここまでくる長い間、栄養のある食べ物などを食べさせてもらっていたことをよく覚えている。母は栄養をつけないと皮膚が出来ないといって、まだもののないころだったが何かと元気づけてくれた。母の処置と気配りがなければ私は途方にくれ、皮膚は綺麗に再生出来ていなかったかも知れない。凍傷のことを思い出すたびいつも母に感謝している。

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2004.02.29

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-4

凍傷を受けた全ての個所の水泡のなかの漿液が、真っ黒い桐炭椿油と置き替えられて、どのくらいの日が過ぎたか覚えていない。
日が流れるにつれ次第に新しい皮膚が生まれてきている実感につつまれ、身体全体に力がみなぎってくるのを感じるようになっていた。このころは、毎日ただ食べて新しい皮膚の誕生を祈るばかりであったと思う。身体が腐るのは簡単であるが、身体に新しい皮膚を誕生させるのは、そう簡単なことではなかったはずである。
このころ赤城さんと会っていたのか、学校で何があったのか、友達と何を話していたのか、一切記憶にないののが不思議といえば、不思議な気がする。このころの記憶の量は非常に少なくなっていると思う。私の感では、他のことを感じている暇が無いくらい、凍傷の治療に専念していたとしか思えない。つまり、痛かったか痒かったか、布団の中でも布団に触らないように注意し、人と話していてもうわのそら、何を聞いても聞こえず、という心理状態にあったので記憶に残るものは何もなかったと思えるのだ。私は今でも、何か気になるとそのことに集中してしまって周囲のことは何も分からなくなる。昔とちっとも変わっていないと自分でも思っている。
こうして、痛くて痒くて床の中で眠れない日を過ごしていたことが、夢のように感じられるようになっていった。痛い、痒いといって家族には非常に迷惑をかけていたことを後で聞いた。当時の私には、周りのことを考える余裕はなかったうえ人一倍痛いことには弱かったので、その通りであったと思う。痛みには今もなお弱いままなのである。

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2004.02.28

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-3

凍傷になって水泡の出来ている手の指先、足の指先と踵、耳たぶのうち、針を刺し始めたのがどこの水泡からだったか、全く覚えていない。
最初に真っ黒い糸をつけた針が水泡の厚い皮膚を刺し貫いたとき、針穴から滲みでてきた漿液は腐った匂をだしていたが、全く痛みはなかった。もう自分の皮膚ではなくなっているという感じであった。かさぶたを取ったときのような感じに似て、その後が気持ち良かったような気がする。
最初は母が、次は私がそのまねをして針を水泡に刺し貫いた。真っ黒い桐炭椿油をつけた長い糸をゆっくりと引き抜いていく。水泡の中の腐った黄色い漿液を身体の外に出して、水泡の中に真っ黒い桐炭椿油を充填するのである。
私は何度もこれをくり返し、全ての水泡の漿液が完全に桐炭椿油と置き替わるまで続けた。こうして置き換える前の黄色い指先は薄黒い指先へと替わっていった。踵だけは水泡の古い皮膚が厚く、黒い色にはならなかったように思う。
黄色くなって腐った匂いのする漿液が身体の外に出されると、私の心と身体は蘇ったような気分に包まれていったことを、かすかに覚えている。

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2004.02.27

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-2

ここからは私が思い出せることであって、私の母の指示に従って凍傷に対処した記録である。
凍傷になって水泡が出来ているのは手の指先、足の指先と踵、耳たぶである。水泡の皮膚の色がくすんだ灰色に変わり、中の漿液が黄色く濁ったようになるまでに、多分半月くらいは経っていたと思う。その頃から凍傷の治療に取り掛かることになった。
ある日、母は桐の羽子板を丁寧に焼いて黒い炭を作った。それから、保存してあった貴重な椿油を取りだし、その油の中に作ったばかりの桐の黒い炭を溶かし、真っ黒な色をした桐炭椿油を作り上げた。この桐炭椿油が凍傷治療のための唯一の薬品となった。
治療の準備は私の目の前で次々に進んでいく。先ず食事に使っている中皿に真っ黒い桐炭椿油を注いだ。次に太くて長い木綿糸用の縫い針に木綿糸を通したものを取り出し、皿に入っている真っ黒い桐炭椿油の中にその木綿糸を浸し、たっぷり桐炭椿油をしみ込ませた真っ黒い糸を作った。
凍傷の治療は、この桐炭椿油をしみ込ませた真っ黒い糸をつけた針で水泡を刺し貫き、糸に含ませた桐炭椿油と水泡の中の腐って黄色くなった漿液とを完全に交換させるのである。
その当時は未だ炭の持っている力についての知識はなかった。後年、木炭について学ぶようになって初めて、木炭の持っている殺菌力や遠赤外線効果、脱臭力などの力を知るようになったのである。
当時私が持っていた炭のイメージは、習字の墨からの連想で、腐らないし黴びないということくらいであった。

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2004.02.26

雲取山登山で受けた凍傷の克服記-1

昔、私が新制中学の2年生であった頃のことである。ある年の正月3日、ゆえあって独りで雲取山に登山することとなった。吉祥寺の家を朝発って、雲取山の山小屋に着いたのは夜の9時をすでに回っていた。
次の日の朝カマセン(鎌仙)と呼ばれていた山小屋の番人に起こされたとき、私は 手足の指先に凍傷 を負っていたが、それがどのような傷害なのかその時全く分かっていなかった。
カマセン(鎌仙)に、直ちに下山しなさい、と後見人を付けられた私は、山小屋に一晩泊まっただけで、後見人とともに下山させられたのである。下界に近づくにしたがって、私は 凍傷による痒みと痛み を知り、この先どうなるのか不安にはなってはきたが、もちろんまだ何も分からなかった。
雲取山をくだって家にたどり着いて暫くのあいだは、どのように過ごしていたのかよく覚えていない。
私が思い出せるのは、凍傷の手当てを始めたところからである。その間については、ここから逆に推定してみる他はない。
手足の指と足の踵と、それから耳朶に出来た大きな水膨れは、当分の間そのままにしておいたと思う。
水泡の中の漿液が新しいうちは、その下に未だ新しい皮膚が出来ていないので水泡にはさわれなかったのだと思う。
1週間か10日か、日時が経って水泡の下の漿液が死んで黄色く濁ってくるとともに、痛みとかゆみは減ってきていたと思う。

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2004.02.17

野方の喫茶店 Uncle で凍傷について思い出す

2004.02.16 16:09.JPG

いつもの席に座るとブレンドを注文した。リュック入れてある本を取り出して読み始めたが、向こうの席の大柄な中年の女性の声が耳に響いて気が散ってしまう。本を閉じるとコーヒーを一口飲んだ。
ふと手を見ると、眼鏡のせいで手の平の指紋がとても大きく見える。しばらく眺めているうちに思いが浮かんできた。
私の手足の皮膚は非常に薄い、赤子のように直ぐに赤くなってしまう。たいがいの女性の手の平と比べても私の手の平の方が柔らかいと思う。両手をこすり合わせていると、この手指の先の皮膚が、ちょうど指先にはめるゴムサックを取るときのように、スッポリと取れてしまった昔のことを思い出した。
私の両手の10本の指先は、かって第一関節あたりから先がスッポリと取れてしまっているのである。手ばかりではない、足の指先と踵もスッポリと取れてしまっている。そのほか耳の縁も取れてしまっている。中でも足の踵が一番厚く取れてしまい、厚いところで5ミリくらいあったと思う。
皮膚が凍傷で腐って取れてしまったのである。皮膚が腐り終わって取れるまで、2ヶ月以上かかったように覚えている。腐った皮膚が取れるまでには、その腐った皮膚の下に新しい皮膚が育ってきていなければならなかった。腐った皮膚とその下の新生皮膚を、2ヶ月以上にわたって両方おいて置かなければならなかったので、寝ている時に体温が上がって痒みがつのり、痒い痒いと大騒ぎしていたことを微かに記憶している。
どうしてこうなってしまったのか。その原因を知るためには、どうしても私の若かりしときの思い出に入っていかなければならない。
喫茶店の中が静まってきたので、私は再び本を手に取るとページを繰って続きを読み始めた。

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